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 狭い…しかし、他のKFのそれに比べれば余程に広い操縦席に座したまま、C.C.は通信機が立てる小さな音を確認してから相棒を振り仰いだ。つい先ほどまで黒の騎士団相手に細々とした指示を出していたゼロだが、そのこと自体は彼にとって何の負担にもなっていない。それは当然ともいえた。こうなるべくして道筋を作り、怖いくらいに狙い通りの結果を手に入れた以上、彼が事前に計画した事後処理に不備があろうはずもない。今この時を以て、黒の騎士団はエリア11を脱出する。落ち着き先は隣国、中華と既に話がついていた。むしろ、かの国を落ち着き先として定めるために先のキュウシュウ戦役を利用したと言っても良い。
 影の実力者にして切れ者の星刻がこの時期まで大宦官に手を出せずにいたことをゼロは知っていた。だからこそ、既に具体的な話になりつつあった天子とブリタニア第一皇子との婚姻の策謀が囁かれていることを星刻の耳に届けた。それを知った彼の懊悩は想像するに余りある。天子を守るためには大宦官を排さなければらなないが、彼自身にはどうやったところでまだその力はなかった。
 忸怩たる思いに苛まれる彼にとって、キュウシュウ戦役で中華そのものに敵対することなく大宦官のみを討った黒の騎士団はどのように見えたことか。無論、星刻も若いとはいえ世間知らずではない、恐らく黒の騎士団の真意を探ったことは想像に難くなかった。黒の騎士団総帥と素知らぬ顔で通信を交わしながら、様々な想像を巡らせたことだろう。しかし、本音を言ってしまえば彼に悠長に他者の底意を警戒する暇はなかった。付して言うなら、黒の騎士団は明らかな弱みを…この場合、帰るべき場所を失って拠点を求めているという瑕疵を抱えている。それ故にブリタニア相手には「服従」を迫られる中華も、黒の騎士団とであれば「交渉」のテーブルに着くことが出来た。世界情勢がブリタニアの一極化を辿ることを厭う中華にとって…そして、誰よりも天子の幸福を願う星刻にとって、提示されたそれは選択肢ですらない。

「中華だか蓬莱島だか知らんが…分かっているな、ルルーシュ?」

 形の良い唇を少しだけ持ち上げた笑みは、冴え冴えとした瞳に反して実に楽しげに輝いていた。「以前」のことを言うなら、C.C.はあの暖かいクラブハウスを離れてからというものろくな生活を送れていない。掌の中にあった懐かしい毎日が終わる境界線上にあってそれでも彼女が笑みを浮かべることが出来たのは、嘗ては一時なりとも失われた共犯者が今この時においてはその細い指先で未来を指示しているからに他ならなかった。ここまで、全てルルーシュの思惑通りに動いている。些細な計算違いはあったが…そう、それはC.C.にとっては実に些細な問題だったので然して気にならない範囲のものだった。そして、今度こそルルーシュは「優しい世界」を作り上げるのだろう。
 世界が巻き戻されても、自身とルルーシュの契約は続いている。ならば、彼が以前口にした「笑顔にしてやる」という他愛なくも重大な口約束も有効であるべきだった。C.C.はかつての哀れな魔女だったころと違い、今となっては明確に自身の望みを把握している。そうであるからこそ、彼の作る「優しい世界」には魅力を感じざるを得なかった。その未来を手に入れるためであれば、あの優しく暖かな空間と暫しの別れを告げることもやぶさかではない。とはいえ、それとこれとは別問題だとして自身の要求を口にした魔女に、魔王は形の良い眉を寄せて息を吐いた。

「分かっている。まったく、」

 あきれた風情で小言を口にしようとしたゼロの言葉が、不意に途切れた。張りつめた中にも気安さを覗かせていた瞳の色を一変させた彼は、微かに震えて着信を告げた通信機を見遣る。小さな指の動きで魔女の発言を封じたゼロは、細心の注意を払って通話ボタンを押す指に力を入れた。

「…はい。どうかしましたか、咲世子さん」

 






夢中天 46








 C.C.は既視感を覚えることも出来ずにじっと共犯者の瞳を見詰めていた。やっていることはつい先ほどと何も変わらない。彼の通話が終わるのを待っているだけだ。しかし、その間に抱える感情は間違っても同じとは言えなかった。ゼロの掌の上で踊る世界情勢を相手に予定調和の指示を飛ばしている時とは状況が異なる。痛みを堪えるような表情で咲世子の声を聴いているルルーシュは、確かに乾いた声で「ナナリーが、」と呟いたのだから。
 彼女がルルーシュの最大の弱点であることは分かっていた。だが嘗てナナリーを連れ去った人物は、今となっては彼女を連れ出すだけの能力を失っている。あの異空間に干渉する力なくして、平穏な学園から人知れず車いすの少女を連れ去ることなど出来る筈もなかった。じりじりと急くような気持ちを抑えきれなくなった頃、ルルーシュは咲世子に何事かを告げて通話を切る。それを確認するが早いか口を開こうとしたC.C.を目で制して、そのまま瞼を伏せたルルーシュは短く声を発した。

「ナナリーが連れ去られた」

 自らの息を飲む声を聴いたC.C.は、説明を求めて逸る心を抑え込んだ。最愛の妹を失うことが眼前の男にとってどのような意味を持つものか、痛いほどに理解している。彼が世界を手に入れるための始めの一歩、言い換えるならば嘗ての彼のありとあらゆる動機の始原に位置する少女の安否は、ルルーシュにとって度外視できるものではなかった。結局ここで、「行政特区日本」設立の間際に躓くしかないのかと唇を噛んだC.C.に共犯者は、深く、肺を空にするような息を吐く。

「V.V.のコードが失われた可能性が高いからと言って、油断しすぎた。その気になれば連中には人目を気にする必要などない…ナナリーはブリタニアの紋章を掲げた黒塗りの車に乗った金髪の子供に連れ去られたらしい。しかも、白昼堂々と」

「それは…」

 そも何を言うべきか分からずにいた魔女は、ルルーシュの言葉を聞いて絶句した。そのような方法を取られたのであれば、表向きはただの学生でしかないルルーシュに対抗手段はない。いくら黒の騎士団が勢力を伸ばしたとはいえまだ植民エリアにおいて何の策もなく真っ向からブリタニアと全面対決するには至らないし、何よりそれだけの力があったとしても「黒の騎士団」としてナナリーを彼女が属するはずのブリタニアから守ることなど出来ようはずもなかった。
 どうする、そう声を掛けようとした魔女は、視線の先の魔王が伏せていた瞼をゆっくり持ち上げるのを黙って見ているしかできない。現状を重視すればこそ息遣いにすら気を使うC.C.の意に反して、思考に費やした時間はそう長くはなかった。

「中華へ向かう。一度クラブハウスに戻り咲世子も連れて行く」

 指針を口にした声には微塵の迷いも含まれていない。そのことに安堵してよいのか不安を新たにすべきなのか逡巡した魔女は、自身でその答えを見つけないままにやや硬いルルーシュの顔を見上げた。視線を受けて、掌で口元を隠した共犯者は言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「ナナリーを連れ去ったということは、利用価値を認めているということだ。わざわざ手間をかけて自分の存在をあらわにしてまで連れ去ったナナリーをただ害するなどという芸のない真似をする筈がない…である以上、危険は逼迫していないと見るべきだろう。
 今、黒の騎士団を失うわけにはいかない」

 それは実に冷静な声だった。例えば通信機越しにこの言葉を聞いていれば、C.C.は彼の言い分を信じるしかなかっただろう。だが、苦渋を隠すように口元を覆った右手を、膝の上で固く握りしめられた左手を見てしまえば彼の真意など言葉にされるまでもなかった。心中察するには余りある。だが、その決断を下したのは他でもないルルーシュ本人だった。

「…良いんだな」

「言った筈だ。咲世子を回収して蓬莱島へ向かう。目立たない場所へガウェインを降ろせ」

 蛇足ともいえる念押しに答えた声には躊躇の色はない。吐き出しかけた息を飲みこんで小さく頷いたC.C.は、暫し別れることを誓ったはずのクラブハウスへと進路を定めた。咲世子を黒の騎士団に合流させることについては若干の説得を要するかもしれないが、ルルーシュは彼女の賛同を信じて疑っていない。彼女を自陣に引き入れる策があるのかと思わなくもないが、どちらかといえば彼女に対する信頼ゆえの判断だと思えた。篠崎咲世子は、嘗て数少ないルルーシュの心よりの味方だったのだから。










「申し訳ございません」

 ルルーシュの顔を見るなり、咲世子は深々と頭を下げた。普段から何事にも動じない飄々とした彼女も、今回ばかりは些かと言わず顔色が悪い。青褪めた咲世子に声を掛けようとしたルルーシュは、しかし何を告げても気休めにさえならないことを理解して唇を閉ざす。更に言うなら、安易な気休めは彼女にとって侮辱になる可能性すらあった。ランペルージ兄妹が誰が見ても仲睦まじく互いに深い愛情を抱いているのは明白だが、ナナリーを慈しむのはルルーシュだけに許された特権ではない。二人と付き合いの長いミレイや学校で親しくしていたシャーリー、リヴァルもそうだが、咲世子は彼らの誰よりもナナリーと接する時間が長く、傍目にもナナリーをよく助けてくれていた。それは無味乾燥な義務感だけでできることではないと、誰よりもルルーシュ自身が身に染みて理解している。驚くほど有能でありながらも細く女性的な肩を小さく震わせる彼女の気持ちを重々理解すればこそ、ルルーシュは鋭く口を開いた。

「どういう状況だった」

「はい、ナナリー様は本日も普段と変わらず登校されました。学校でも何も変わったことはなかったそうですが、ナナリー様が校舎を出る瞬間を見計らったようにブリタニアの紋章を掲げた黒塗りの車が校内に侵入してきたのです。そして何の言葉も発さずに、驚いて説明を求めるナナリー様を車椅子ごと車内に連れ込んで発車し、その後は政庁の方向へ走り去りました」

 事実だけを語る咲世子の瞳には、ありありと口惜しさが滲んでいる。弱肉強食のブリタニアにおいて、国家権力を表す紋章に逆らうことは即ち死を意味していた。その上で、彼女はナナリーに関わることでいらぬ被害をこうむる可能性を恐れるのではなく、力及ばず彼女を連れ去られた不手際を恥じている。

「目撃者は」

「多数。中にはナナリー様のご学友もいらっしゃいました。変わった様子はなかった、とは彼女から聞いた話です。
 取り敢えずはルルーシュ様に何かお心当たりはないか確認しておく、と説明してあります」

 短い問いに答える咲世子は恐縮しているが、その場合他に何も言うことは出来ないだろう。実際ルルーシュが関係している可能性もあったし、そうでないならなおのこと軽々しく口にできることではない。
 第一報を受けた時に得た情報を面と向かって聞くことで改めて脳裏に叩き込んだルルーシュは、固く掌を握りこんだ。判断は、覆らない。

「咲世子」

 鋭く名を呼ばれた家政婦は、厳しい面持ちのまま視線を少年に向けた。彼が帰宅してからずっと感じていたことだが、今日の彼は今までの「ナナリーの兄」とは違う。何が、と説明できるものではなかった。なぜなら、何もかもが異なっている。
 昨日までの常々兄バカだと思っていた甘い声も、子連れの猛獣のような一種危うい優しさも、小さなことも見落とさず細々とすべてを見渡しながら知性に溢れた眼差しさえも、全く別物になっていた。冷たくすら感じられる硬い意思を伴った声は、明らかに命令を下すことに慣れている。意図せず背筋が伸びるのを感じながら、咲世子は彼の次の言葉を待った。

「力を貸してほしい」

「…と、仰いますと」

「俺は今日を限りにエリア11を離れて中華に渡る。そこで…」

 厳しく言葉を連ねていた少年が、一瞬痛みを堪えるような表情を見せた。それを読み取りながらも、咲世子は彼の言葉に理解できないものを感じて僅かに眉根を寄せる。彼が協力を求めるのであれば、それはナナリーを取り戻すことであり、せめて安全を確認…ひいては確保するためのものであるべきだった。だが彼はエリア11を離れるという。余計な言葉を差し挟まずに瞳に力を入れると、一旦言葉を切ったルルーシュはそれまで同様冷徹な響きで声を紡いだ。

「そこで、この世界を壊す。ナナリーが…いや、ナナリーのような弱者でも笑って生きていける世界を作るために。
 そのためには咲世子、お前の力が必要だ」

 真摯な瞳に貫かれた咲世子は、眼前の少年の言葉を訝しんで言葉を失った。思ってもいない方向に飛んだ話に説明を求めようと開いた唇は、しかし問うべき言葉を探す前に力を失う。
 実際、彼の言葉と理論は咲世子の想像の斜め上どころか、思いもしない領域に及んでしまってどうにも反応しようがなかった。だが、ここで咲世子が思ったようにただナナリーを取り戻したとして、その後、講じるべき対策など無いに等しい。そもそも何の被害なく彼女を取り戻すこと事態奇跡のようなものなのに、運よく日常を再開できたとしても「ブリタニア」という強権の前には咲世子はもちろんランペルージ兄妹も、アッシュフォードでさえ無力だった。そうである以上、回り道だろうが気の長い話だと嘲られようが、世界を変えることでしか前には進めない。
 無論、咲世子にそこまで付き合う義理はなかった。ナナリーのことは大切に扱ってきたし、苦境にも負けずに心優しく朗らかな彼女は咲世子にとって何の衒いもなく「大切だ」と断言できる相手ではある。だがしかし、それだけでは名誉ブリタニア人として掴んだ一定の生活を捨て、子供の甘言に惑わされるように中華に渡ってブリタニアに事実上の反旗を翻すほどの動機としてはやや弱かった。現実を胸中に噛み締めながら、咲世子は受ける視線と同じだけ真剣なそれを少年に返す。紡いだ言葉は短かった。

「喜んで」

 答えた瞬間、それまで張りつめていたルルーシュの瞳がほんの少しだけ緩んだように…微笑んだように、見えた。その変化に自身は明確な微笑を返しながら、咲世子は己が決断に誤りはなかったと確信する。
 ナナリーだけのことであれば咲世子は自身の運命全てを賭けられたか、そこに明確な答えはない。しかし、彼女のような…自身にとって確かに大切な存在を理不尽に奪われて、それを当然のことと受け入れて生きていくにはまだこの先の人生は長すぎた。この世界を壊すというルルーシュの言葉は夢物語だろう。それでも、進むべき方向性を見出している彼の強い視線には、少なくとも咲世子がこれまで持ちえなかった可能性が垣間見えた。
 それは希望的観測だったかもしれない。だが、名誉ブリタニア人になって初めて「希望的」な未来を感じさせてくれた少年に、家政婦として生きてきた女性は命運を託すことを決めた。











 物音が低く反響している。音の余韻から察するに天井はかなり高いだろうが、周囲には解放感といったものが全く感じられなかった。明らかに不健康な空気は、しかしじめじめしているわけでも黴臭いわけでもない。ただ、この場所は死んでいる…そして、ここから新しく生まれるものなど何一つない、そんなことを主張するような匂いだった。
 きつく唇を引き結んだナナリーは、身動ぎ一つせずに慎重に周囲の気配を探る。いつもと変わらぬ放課後、学校まで迎えに来ているはずの咲世子と合流する前に突然数人の男に車椅子ごと抱えあげられて車に乗せられ、何の説明もなしにここまで連れて来られた。その間、ナナリーの身元を確認するような言葉を発した者はいない。否、殆ど何の声も聞かなかったとすら言ってもよかった。唯一、男たちに指示を与えていた少年の声だけが耳の奥に残っている。

(まだ幼い、男の子)

 少年の声には甘い響きがあった。部分的に舌足らずの印象すら与える声音は、しかし非常に冷徹で一方的な指示を与えることに慣れていたように思える。
 ナナリーがどれだけ記憶の波をかき分けても、彼のような知り合いは周囲にいなかった。身体的な事情もあって行動半径が広いとは言い難いナナリーにとって、年齢に開きがある相手と知り合うこと自体が少ない。限られた友人・知人の関係者という可能性も皆無ではなかったが、こうも乱暴に拉致して平気な顔をしている知り合いは現在のナナリーにはいなかった。

(わからない)

 名も知らぬ少年の真意を掴めずに沈思する少女の胸中は恐怖に彩られている。だが、それは自身の前途に対する不安や絶望から来るものではなかった。
 自分が連れ去られて、兄は何を思っているだろう。自分をここに連れてきた人たちの本当の狙いは兄ではないか…つまり、兄を縛る目的で自分を連れてきたのではあるまいか。いや、それすらも楽観的な考えで、実は兄もすでに捕えられている可能性も否定はできない。もしそうであれば、ここで座っているだけの自分と違って、兄は何か辛い目に遭わされていないだろうか。
 空転する思考が悪い方向に突き進んでいることを自覚して、車椅子に掛けたままの膝の上で固く手を握りしめた。

「何も聞かないんだね?」

 目の前といってもいいほどの至近距離から聞こえた子供の声は、揶揄の響きに満ちている。初対面ともいうべき相手が位置取るにしては明らかに不適切なその立ち位置に、しかし周囲を正しく把握していたナナリーは僅かな狼狽も見せなかった。今この不気味な部屋にいるのは、何も知らない自身と、その状況を主導した正体不明の子供のみ。それを重々承知しながらアクションを起こせない自分を歯痒く思いながら、少女はゆっくりと唇を動かした。

「答えていただけるのであれば、お伺いしたいことはあります」

「ふぅん?」

 少年は答えるともそうしないとも言わない。促すような合いの手は、その軽さに比例して少年が然程関心を抱いていないことを示していた。それに何かを思うことなく、ナナリーは一つずつの音を刻み付けるように明確な言葉を発する。それは、意図せず冷酷な響きすら伴っていた。

「何が目的ですか」

 短い問いに対する答えとして、どのようなものが帰ってきてもナナリーに対処策はない。だが、彼女には見極めが必要だった。彼が、この傍若無人な少年が、「禁句」を口にするか否か。この問いには何を答えても構わないのだ。そこに、たった一つの言葉が含まれさえしなければ。
 全身全霊を聴覚に傾けるナナリーの心情を知ってか、少年は歌うように応えた。

「目的? そうだね、それを説明する前に一つやっておかなきゃいけないことがあるんだ」

 勿体ぶるような声音は、楽しげに揺れている。鈴を転がすような愛らしい響きを伴ったそれは、実に醜悪だった。相変わらず至近距離から聞こえた声が終わると同時に、小さく軽い足音がナナリーの周囲を移動する。ゆっくりと周囲を一巡した足音は、正面に戻るとほんの少しだけ遠ざかった。

「ナナリー、盲目の女の子。誰かが守ってあげないと生きていけない、か弱い子。
 そして、ルルーシュの妹」

 少女の意識を試すように、つらつらと言葉が躍る。彼の口から最愛の兄の名が毀れる嫌悪に身を固くしたナナリーは、じっと次の言葉を待った。回答を持っていることに優越感を感じているらしいこの不気味で愚かな子供は、待っていればきっと決定的な何かを口にする。それが自分にとって良いことかその反対なのかはまだわからないが、その瞬間は注意深く迎えなければならなかった。

「足が動かないのは辛かった? 目が見えないのは不安だった? 突然異国に送られて、とっても怖かっただろうね?」

「いいえ」

 とっさに答えてしまったのは、それが常にナナリーを取り巻く質問だからに他ならない。同じことを…そしてそれを上回ることを何度尋ねられたことか。その度にナナリーは胸を張って答えてきた。尋ねられる度に全く同じ言葉を選んで返す、その真意はきっとナナリー以外の誰も…最愛の兄ですら、正しくは知らないだろう。見えない視線で少年を刺し貫くような凛とした態度に、しかし少年は全く頓着せずに低い笑みを零した。

「そう、きっとルルーシュは良いお兄さんだったんだね…?」

「ええ」

「愛している?」

「勿論です」

「大切にされている?」

「そんな言葉では言い尽くせません」

 質問ともいえない短い言葉に一つずつ答えを紡ぎながら、少女は静かに状況を理解しようと努めていた。態々連れ去って、こんな言葉遊びを望んでいたはずがない。何かの意味があるのだ、それも重要な。問いの裏に隠された意味を測り兼ねている現時点では少年の問いに正直に答えることが正しいのかどうかも分からないが、分からないからこそナナリーははっきりと肯定を口にした。後になってこの会話の意味を知った時に、後悔する可能性はある。だが、その確証がない限り、少女は決して自らに向けられ、自らが誇りを持って抱く愛情を偽ろうとはしなかった。
 彼女の返答の様子を、不安を感じさせずにまっすぐに伸びた姿勢を薄い笑みを浮かべながら見詰めていた少年は、ゆっくりと満足げに頷く。楽しげな表情に喜ばしいと言いたげに細められた瞳、緩やかに上がった口角は微笑みのお手本のように整っていたが、そこには暖かな情感らしきものが一切感じられなかった。小さな唇からこぼれるくすくすという笑い声すら地を這うような不気味さを伴っている。

「上出来だよ、ナナリー。君はあの出来そこないのお兄さんとは全く違うらしい」

「…今、何て仰いました?」

 感嘆と共に吐き出された声は、車椅子の少女にとって看過できない言葉を含んでいた。明らかに温度を下げたナナリーの硬質な声に肩をすくめた少年は、おどけて言葉を続ける。

「違うよ、ルルーシュのことじゃない。つまり…いや、説明するのも面倒臭いや。ナナリー、これを見てよ」

 言葉通り投げやりな口調の少年は、ナナリーの瞼が上がることはないと知っているはずなのに、何でもない事のようにそう言った。全てを自己の内側で完結させているらしい少年の言葉に今更眉を寄せることもなく、少女は続く言葉を待つ。痛いほどの静謐に研ぎ澄まされた彼女の聴覚は、ぺちぺちという小さな音を拾った。柔らかな掌が固いものを叩く音…声音と音の位置から自分より随分幼い少年と思っていたが、響く音から判断する掌の柔らかさをとっても、その予測は間違っていないらしい。

「それは…?」

「ギアスキャンセラーだよ。本当は誰かに搭載できれば一番よかったんだけどね、これに耐えられる強度を持った子供が一人もいなかったんだ」

 詰まらないよね、と続ける軽やかな声は同意を求めているようでもあったが、少年の言葉はナナリーにとって何一つ理解できるものではなかった。理解できない単語から始まる言葉は話の継穂の役にすら立たない。結果、沈黙を守るしかないナナリーを見て小さく鼻を鳴らした少年は、たどたどしく細い指を伸ばした。

「このままじゃ持ち運びも出来ないし、あんまり役に立たない…そう、せめて僕の手間を省く位にしか、ね」

 呟くような声の最後の一言に合わせるように響いた「パチリ」という軽い音は、まるでありきたりな照明のスイッチと同程度の重みしか伴っていない。理解できないなりにも少年の言葉を追いかけようと眉根を寄せたナナリーは、しかし次の瞬間には突然突きつけられた膨大な情報に正気を失った。

「あ、ああ」

 細く喉を震わせて、両腕で自らの肩を抱いて背中を丸める。美しく整えられた指先はこれ以上ないほどに力が籠められ、柔らかな肩の肉に食い込んでいた。限界を超えたらしい指の爪が一つ、バキン、とひどい音を立てて折れる。それは、「ナナリー」にとって崩壊の音だった。

「うん、実験は成功だ。思い出したみたいだね?」













 脳裏に絶望を叩き込まれた世界の中で、耳障りな声が聞こえた。促されるようにのろのろと視線を上げると、果ても見えないほどの薄暗い部屋の中で金髪の少年が得意げに笑っている。彼女は、先ほどの耳障りな声の主と思しきその少年を知っていた。
 だが、そんなことは全くもって重要ではない。

(汚い…)

 薄暗い、誰も寄り付かないような部屋。息をすることすら耐え難いその空気は、少女にとって欠片も好ましい要素を備えていなかった。少年を無視するように視線を周囲に巡らせて、彼女は唯一つの言葉を思い出す。

(おかしい、そんな筈ありません。私の目が見えるころには「優しい世界」が出来てるって、綺麗なものがたくさん見られるって)

 そう約束してくれた優しい人、あの人は絶対に…「私には絶対に」嘘を吐かない。ならば、この世界はまだよく見えないからわからないだけで、本当は美しいのかも知れなかった。いや、絶対に美しくて優しくて綺麗に違いない。だって、あの人が嘘を吐くはずないのだから。
 懸命に目を凝らして好ましいものを探そうとする少女に、少年はゆったりと近づいた。彼の体が、正直に言って邪魔だった。

「長い任務だったけど、成功したみたいで僕も嬉しいよ。お疲れ様。君には早速動いてもらおうかな」

「え…?」

 意味が分からないことを話す子供が邪魔で仕方ないのに、彼は嬉々として少女の眼前で笑う。何一つ理解できないままに、少女は短く声を漏らした。頭のどこかで警鐘が鳴り響いている。けたたましい音は唯一つの警告、「聞いてはいけない」それだけを繰り返していた。

「まだよく思い出してないのかな? 君はね、猫の首についた鈴だったんだよ。
 シャルルはC.C.を確保するためにルルーシュを餌にしようって言ったけど、万が一ってこともある。だから、ルルーシュのお目付け役が必要だった。その点君は最適だったよ。ギアスも宿せない出来損ないだと思ってたけど、触れることで相手の思考を読み取れる君ならルルーシュの嘘も…秘密も、簡単に暴ける。だから、シャルルはギアスで君と「ルルーシュの妹」を入れ替えた」

 ルルーシュ。少女が目を開けてから初めての、優しい響きの言葉。胸の奥をじんわりと温めてくれる優しいその名前を、汚らわしい少年が口にすることが忌まわしかった。

「さ、目ももう見えてるみたいだし、足も動くよね? 外に人を待たせているから、君一人でペンドラゴンまで行くんだよ。大丈夫、世話役に話はつけてあるから」

 説明は終わりだとばかりに行動を促す少年の言葉の意味がよくわからない。否、彼の言葉を理解しようとすることを全身が拒否していた。小刻みに震える体を押さえつけるように抱きしめると、幼い子供は外見に似合わない嫌味な溜息を吐く。それは、言葉の形をとっていない叱責だった。

「覚えてるかな、君の本当の兄さんはついこの間ルルーシュのところに行ったけど音信不通になっちゃって、役に立たないんだ。だからいつまでも呆けてないで、彼の分まで僕たちの役に立ってもらうよ、「ナナリー」…いや、もう君にその呼び名は相応しくないかな。ねえ、」

 薄い笑みを張り付けた少年が口を開く。それまで呆然としていた少女は、強烈な危機感に襲われて両手を伸ばした。
 













 目を見開いて細い両腕を伸ばした少女の形相は、悪鬼そのものだった。やっぱり他人はダメだ、この世界で信じられるのは弟ただ一人だと、そう思いながらV.V.は甘んじて避けることなく佇んでいた。少女の指が幼いままの首に絡みつく。気道を圧迫される苦しみも、もう幾度も死を体験した彼にとってはお馴染みのものだった。

(みっともないなぁ)

 少女はつい先ほどまで実に毅然として美しかったのに、今となっては見る影もない。錯乱した人間というのは本当に見苦しいものだった。
 彼女の本当の名前を呼ぼうとしたことに起因する少女の殺意は本物であるらしく、指先に込められた力には容赦の一欠片も感じられない。しかし、それはV.V.にとって好都合でもあった。敵意を剥き出しにする相手を完全に掌握するためには力の差を…絶対に敵わないのだという現実を見せつけるのが最も手っ取り早い。それを知っているからこそ、彼は格下の相手に敢えて殺されることもままあった。じわじわと酸素が失われていく中、少年は今後のことを考える。
 そもそも、現在V.V.に殺意を抱く少女を「ナナリー」にしてしまおうと言い出したのはシャルルだった。ルルーシュは餌に使えるが、せっかくの餌に糸が付いていないのでは釣りにならない。だから万が一の保険としてナナリーはブリタニアに残し、ラウンズの立場を与えて掌中に収めておく必要があった。代わりに、ルルーシュの底意を窃視できる少女を「ナナリー」にしてしまう。いざとなれば記憶を戻してルルーシュに対する抑止力に使えばいいのだ。

(シャルルは心配性だから)

 V.V.は知っている。心配性というのは臆病という言葉を言い換えただけのものだと。だからこそ、兄である自分が万難を排してシャルルと共に嘘のない世界を作らねばならないのだ。彼を守ってあげられるのは自分だけなのだから。今では気が立って正常な判断も出来ずに爪を立てている眼前の少女も、そのためによくよく働いてもらわなければならなかった。さて何をどうしようかな、そう思いながらも段々と意識は白く濁ってゆく。うっすらと笑いながら意識を手放したV.V.は、穏やかに命の終焉を迎えた。
 長らく生きた彼の人生が終わった瞬間は恰も日常の連続の様で、彼自身自分が「死亡した」ということに気づいていないような、そんな漫然とした最期だった。















 突然手にかかる重みが増したような気がして、少女は反射的にきつく掴んだ細い首を放す。どさりと重苦しい音を立てて崩れ落ちた少年の体は、先ほどまでこれが自分の力で立っていたのだということが信じられないほどに歪に見えた。恐る恐る口元に手を伸ばすが、呼気が掌を擽ることはない。開いたままの瞳があさっての方向を向いていることを確認した少女は、心底安堵の息を吐いた。
 これで良い。これで、この邪悪な少年は自分を知らない名前で呼んだりしない。「ナナリー」以外の名前など、彼女は認めてはならなかった。

「ああ…」

 深呼吸を繰り返して漸く落ち着いた少女は、再度周囲に視線を投げた。ちっとも綺麗でも優しくもないこの場所で、好ましいものを探す作業は中断されたままになっている。いや、そんな事よりももっと大切なものを探さなくてはならなかった。彼女の世界の中心、本当の「優しい世界」。
 ゆっくりと立ち上がろうとしつつ何度か失敗して膝をついた少女は、自らを支えるべく床に手をつこうとした。だが、掌がこわばって力が入らない。おかしいな、そんな風にぼんやりと訝しく思って見詰めた掌には、真っ赤な血が伝っていた。

「いやだ、いつの間に…」

 呟きながら、制服のスカートに入っていたハンカチで手を拭う。だが、掌を汚す血液は簡単には落ちなかった。それどころか、新しいそれが爪の先からじわりと滲む。いつしか必死になって掌を拭い続けていた少女は、いつまでたっても消えない汚れに焦っていた。自分は綺麗でいなければならないのに。いつも綺麗でいて、優しく微笑んで、目一杯の幸福を返さなくてはいけないのに。
 汚れが落ちない。

「嫌だ、嫌…」

 弱弱しく呟く少女の瞳には、いつしか涙が滲んでいた。
 彼女はいつでも多くを望みはしなかった。ただ、彼女が持っている、彼女だけに許された唯一のものを大切にしたい、それだけを考えて生きてきた。
 その「大切なもの」には、汚れた手では触れない。

「嫌…」

 同じ言葉を力なく漏らす少女の頬を伝って、小さな雫が落ちる。頬を濡らすそれの正体に気づいて、少女は更に追いつめられていた。何もできない自分が最愛の人に返せるのは愛情を示す微笑みだけだと知っているからこそ、彼女は常に笑顔でいることを自らに課している。そうである以上、負の感情から引き起こされる落涙など、決して見られるわけにはいかなかった。

(拭わなきゃ)

 そう思う端から、生暖かい雫が頬を伝う。しかし、本来その役目を担うハンカチは既に真っ赤に汚れてしまっている。こんなものでは更に汚れを塗布してしまうのは目に見えていた。何かないかと周囲に視線を向けても、薄暗い部屋は何一つ少女の望むものを内包していない。彼女の視線に映るのは、汚れた両手と事切れた少年だけだった。打ち捨てられた幼い子供の首は、少女の掌と同じで赤く汚れている。
 その事実を認めた瞬間、彼女は理解してしまった。

「……っ」

 両手を彩る鮮血をすべて洗い流したところで、彼女の手は決して綺麗になどならない。これから先、少女の手はもう嘗ての清らかな白を取り戻すことは決してないし、例え頬を伝う涙を完全に拭き取ったところで、あの優しい人が微笑んでくれることなど今後一切有り得なかった。少女が薄暗い部屋で死体と一緒に蹲っているのも当然のことで、優しい世界にも美しい景色にも、いかなる綺麗なものにだって手が届くはずはない。
 それが正しくて、それが当然だった。彼女は何も失ってなどいない。
 ただ、彼女が信じていたすべてのものは最初から彼女のものではなかった、それだけのことだった。

「嫌…!」

 絶叫になる筈の声は、弱弱しく声帯を震わせただけだった。

「お兄様、おにいさま…っ」

 縋るように最愛の人を呼ぶ声は、冷え冷えとした漆黒の空間に吸い込まれるように消える。取り乱す少女は自らの視界が…長らく閉ざされていた瞳がたとえ僅かなりとも光を得たというのに、これまで以上の暗闇に囚われていた。胸をすり潰されるような苦痛から救い上げてほしいと願いはするが、少女には手を伸ばす相手すらいない。

(優しい世界じゃない、綺麗なものなんて何もない…。でも、お兄様が嘘なんて吐く筈がない)

 血を吐くような気持ちで思い出す優しい声、彼はいつだって正しかった。優しかった。暖かかった。少女の世界の全てだった。彼は絶対に嘘を吐かない。ならば、「優しい世界」になっている筈だったのだ。「彼の妹」がその眼を開くころには、必ず。そうである以上、この世界が冷たくて悍ましいのは世界が悪いわけではない。

(間違っていたのは世界ではなく、わたし…!)

 認めたくはなかった。だが、血に濡れた両手が、物言わぬ子どもの死体が、そして何より今この場所に「彼」がいないことが少女に事実を突きつける。
 零れる嗚咽を唇を噛んで堪えた少女は今度こそ震える両足で立ち上がり、微かによろめきながら子供の死体に向って歩を進めた。冷たい床に散らばった長い髪を掴むと、少年の体をゆっくりと引きずって動かす。少年の体は見るからに小さいが、両手にかかる負担はその外見を裏切るかのように重かった。
 この行動に建設的な意味など無い。ただ、目の前に自身の行動の結果を見せつけられることに耐えられなかった少女は、それを始末してしまいたかった。遠い、果てしなく遠い思い出したくもない記憶の彼方に、幼少期を過ごした建物の構造を思い描く。彼女は現在自分がいる場所がそれのどこに当たるのかすら理解していなかったが、広い施設には複数のダストシュートがあったことをかすかに覚えていた。
 捨ててしまいたい。だが、それを行ったところで何も変わらないのは分かっていた。分かっていながら、彼女は幼い子供の死体を引きずって歩く。折れた爪を中途半端に張り付けた指が痛んだが、そんなことはどうでもよかった。否、この真っ暗な世界の全てが彼女にとって意味をなさない。
 許されないとは知りつつも、彼女は唯一つのことを切望していた。

「お兄様、たすけて…」

 彼女に答える声はなく、そこにはただふらつく足音と何かを引き摺る重い音だけが響いていた。
















       















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