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 片手で持つには少し大きい携帯電話を弄びながら、ナイトオブシックスは自身の新しいKFを見上げていた。赤を基調としたカラーリングは自分の好みではないが、所詮道具にそれほど固執しているわけではない。色など、誰かが決めた好きな色を塗りたくれば良いのだ。同じ理由で携帯電話にも執着しない彼女は、他者と繋がるための端末を軽く宙に投げては落ちてくるそれを受け止めるといった行動を繰り返しながら、脳裏に今後の展望を描いていた。

(V.V.のおもちゃも思った以上に役に立たないわね)

 初めから然程期待はしていなかったが、その点に関しては予想以上だった。ギアス嚮団などと大層なものを引き連れているから少しは使えるかと思ったが、所詮指導者が子供ではどうしようもない。V.V.は実年齢こそ皇帝と同じだが、外見のせいか歩んできた足跡のせいか、はたまた本来の性格ゆえかは分からないものの、手が付けられないほどに「子供」だった。

(まぁいいわ。俄仕込みの駒のことは忘れましょう)

 考えながら、携帯電話のディスプレイに映った自身に微笑みかける。そう、V.V.のおもちゃが役に立たなくとも何の問題もなかった。否、むしろあれはゼロの正体がルルーシュであると伝えただけまだマシだろう。ルルーシュがゼロを名乗り、C.C.がその傍らにいる以上、手段などいくらでもあった。なにしろ、あの聡明な息子は親の目から見ても滑稽なほどに「妹」を可愛がっていたのだから。

「あなたも嬉しいわよね、ナナリー?」

 ディスプレイの中で微笑む少女に問いかけるが、無論答えは返らなかった。そのことに諧謔を感じながら、彼女は少女を憐れむ。暗いディスプレイに映った少女は、自身が「ナナリー」と呼ばれるべき人物であることを知らなかった。
 しかしそれも仕方ない。少女は彼女が随分手を掛けたにも拘らず、ギアス継承者としての能力が極端に低かった。これでは役に立つまいと思ってあまり目を掛けていなかったが、彼女の命の灯が消えそうになった時、少女は彼女の「受け皿」として機能した。
 V.V.に騙されて鉛玉を打ちこまれた瞬間、彼女…マリアンヌのギアスは漸く彼女の精神を運ぶ翼として起動した。しかし、元々適性が低く十分な力を持たなかったマリアンヌのギアスでは、自由に精神の受け皿を選ぶことは出来ない。その時、唯一マリアンヌを受け止めることが出来たのは血縁者として最も深いつながりを持つ実子、ナナリーだけだった。
 年端も行かない少女に宿ったマリアンヌはすぐさま皇帝にことのあらましを告げ、現状を利用する術を提案した。ギアスの発現を操作・研究するために嚮団のことはそれなりに知っており、ナナリーと同年齢でそれなりに使えそうな道具の心当たりもある。今後ルルーシュを何に使うにしても、彼の弱点を握っておくことは無駄にはならないだろうと思えた。
 そして、少女は「アーニャ」という偽りの名前を手に入れる。

「さぁて。いつまでも暇なのも面白くないわよね。「あれ」が今までどんな顔でルルーシュの妹を名乗っていたのかは知らないけど…楽しくなりそうだわ」

 不敵な笑みを浮かべながら、彼女は携帯電話を高く放り投げる。最近のゼロの活動は活発で、行政特区の陰にも彼がいることはユーフェミアとルルーシュの性格上分かりきっていた。つまり、それだけの行動を起こせるほどルルーシュに宿ったギアスが強力になっていると考えられる。ここらで「ナナリー」を使っておくべきだった。
 満面の笑みを浮かべた女は、ゆっくりと瞼を下ろす。それは、自身に一片の間違いもないと確信した神々しさすら覚えるほどの姿だった。



 掌に小さな衝撃を感じて目を開いた少女は、自身の手の中の機械をまじまじと見つめる。視線の先では、片時も離さないようにしている携帯電話が鈍い光を反射していた。呆然と視線を上げると、近いうちに自身の専用機になるKFが厳かに佇んでいる。

「…また…」

 少女は、この場所に足を運んだ覚えなどなかった。しかし、そのような記憶の間隙は既に珍しいとも思えなくなっている。じっとKFを見上げる少女は、ゆっくりと、いっそ慎重と呼んでも良いような動作で携帯電話のカメラ機能を操作した。単純な操作は、それに慣れていることも相まって何を考えずとも行えるようになっている。

「記録」

 言葉と共にシャッターを切る。そうして残される小さな画像だけが彼女が信じられる全てだった。










夢中天 47








「ようこそ、我が同志よ」

 軽く両手を広げながら黒ずくめの男を出迎えた星刻は、自身の芝居がかった仕草に胸中で苦笑する。強者に媚び諂う大宦官の所作に半ば憎しみすら抱いていたことは記憶に新しいが、歓待の気持ちが大きいと意図せずとも振る舞いに表れるのだということを初めて知った。無機質な仮面を鈍く光らせながら会釈で応えた黒衣の男は見事なほどに優雅な足取りで歩を進め、星刻の傍らでやや不安げな表情を見せる少女の前に膝をつく。それはつい先ほどの星刻の動作よりなお芝居がかっていたが、ゼロの雰囲気はそれを違和感として感じさせなかった。ゼロの存在そのものが戯曲的であり多分な演出に満ち満ちているから、今更多少の所作など気にならないのかもしれない。
 しかしそれは十分に年齢と経験を重ねた星刻の主観によるもので、目線を合わされた天子は小さく後ずさって傍らに立つ星刻の衣服をぎゅっと握った。その振る舞いはまるで幼い少女そのもので、一国の君主たる風格など欠片も感じられない。それもこれも全ては天子を思うがままに操り、都合のいい目隠しを続けてきた大宦官の弊害だった。とりなしの言葉を選ぼうとした星刻の視線の先で、ゼロは無機質な仮面を少し傾ける。

「初めまして、天子様。私はゼロ。星刻の友人です」

「えっ…」

 眉根を寄せてゼロの仮面を見詰めていた天子は、機械越しの声が告げる内容に小さく声を漏らして最も信頼する男を見上げる。視線を受けた青年は、胸中の驚きを隠してゆっくりと頷いた。
 本当のことを言えば、ゼロは星刻にとって…否、中華にとって「現段階では価値ある共闘相手」でしかない。状況によっては相手を切り離すことを前提としたその関係は、互いに守らねばならないものがある以上は割切るべきものだった。しかし、「星刻にとって」という観点で言うならば、ゼロは一定の信頼を置いてよい人物になりつつある。
 促すように微笑んだ星刻に数回の瞬きを返した天子は、恐る恐るゼロの鈍く光を反射する仮面を見詰めた。

「あ、あなたは、星刻のお友達なのですね?」

「そうです。暫くお世話になりますので、どうぞよろしく」

「はい、えっと、よろしく…」

 分かったようなそうでないような返事を口にする天子の声には、怯えよりも戸惑いが色濃く表れていた。全幅の信頼を置く相手が、眼前の異様な風体の男を受け入れていることが彼女の怯えを和らげた最大の理由だが、完全にそれだけとも思われない。それというのも、ゼロの声音は機械越しに変換され無機質になってなお、聞くものの胸に染み込むような優しさに満ちていた。今日にいたるまでゼロの声といえば大衆を鼓舞する演説のそれしか知らなかった星刻にとっては、天子に語りかけるゼロの姿は意外と呼ぶほかない。無論、それもまたゼロの演出の一つである可能性は考えられた。
 万が一の可能性も考えながら黙する青年の胸中を知ってか、ゼロは音もなく立ち上がると自身の背後に視線を向ける。そこには、護衛も伴わず天子に目通りを願った彼が唯一連れてきた少女が折り目正しく自身の出番を待って佇んでいた。ゼロの意を汲んだらしい彼女はゆっくりと天子の前に歩を進めると、模範的と呼べるほどに美しい笑みを浮かべる。

「天子様、初めまして。皇神楽耶と申します」

「…はじめまして」

 綺麗なお辞儀に合わせて、艶やかな黒髪が肩を滑る。その様をじっと見つめていた天子は、それまでとはまた異なった落ち着かない声を返した。つい先ほどは縋るような眼差しを星刻に向けたが、今度はじっと食い入るように神楽耶と名乗った少女を見詰めている。まだ幼いながらも聡明さを感じさせる瞳をわずかに細めた神楽耶は、ゆっくりとその白く細い手を天子に差し伸べた。彼女の意図がわからない天子は、自らに向けられた掌と笑顔を見比べて小さく首を傾げる。

「あの、えっと」

「ねえ天子様? ゼロ様と星刻さんのように、私たちもお友達になりません?」

「お友達…私と?」

 聞き返した天子の声は、それまでとは別人のもののように弾んでいる。ことここに至るまで、ゼロから挨拶を受けようと眼前に見知らぬ少女が立とうと、事態は天子にとって他人事でしかなかった。大宦官にそうあるように、他者のことになど興味を示さないように教え込まれていた彼女は、無意識的にすべてを「余所事」と感じるようになっている。大宦官が打倒され、星刻がいつも傍にいてくれるようになったことも、天子にとってはただの小さな嬉しい変化でしかなく、それまでの価値観を崩すほどの衝撃はなかった。
 だが、初めて対等な目線で話した年齢の近い少女が、いたずらっぽく微笑みながら提案した「友達」という単語は天子の胸中でひどく鮮やかな言葉となって彼女の胸に響いた。天子自身気づいていなかったが、星刻とゼロが友人なのだと聞いた瞬間、天子は僅かに表情を暗くしている。それは誰よりも信頼する相手が得体のしれない人物を身近に置いたという不安だけではなく、彼までもが自分を置き去りにしていくという不安の表れだった。これまでずっと孤独だった天子は、だからこそ孤独に弱い。それに気づいた神楽耶は、自身の外見と年齢を有効な外交カードとして利用することに思い至った。自身の夫同様「他者から見る自分」の認識に余念がない神楽耶は、優しく包み込むように…そして天子を誘うように楽しげに微笑みながら頷いて見せる。

「そう、お友達。これからゼロ様がこちらに身を寄せるのですもの。私たちも近くにいられるでしょう?」

 神楽耶の声に頬を上気させた天子が、許可を求めるように星刻を見上げる。神楽耶の狙いに気付いている星刻は、しかし逡巡することなく淡く微笑んだ。
 将来的にゼロとの共闘を続けていくと仮定して、感情面での友好関係も疎かにすべきではない。無論、何らかの事情が出来すればゼロとの線を切る可能性も考えられるが、大宦官派を粛清して間もない中華には当面の間はその選択肢はないも同然だった。今はまだ、ゼロと彼が率いる黒の騎士団の戦力とネームバリューは中華の役に立つ。はっきりとした脅威はブリタニアだが、ブリタニアに対抗する能力がない、或いはそれだけにかかりきりになっていると思われれば周辺地域は中華の利権を侵害するだろうし、国内情勢が悪化することも目に見えていた。それらの対策として、分かりやすい希望の象徴としてのゼロを抱き込むことは急務とすら言って良い。そのためならば、神楽耶が狙うそれと同じ効果を星刻も願わなければならなかった。当然、幼い二人の友情が天子にとって望ましいものであることが何よりの前提になるが。
 星刻の微笑を受けた天子は、隠された意図は知らずとも、それが了承を表す表情であることを読み取って表情を輝かせた。すかさず、神楽耶が優しく天子の両手を自らのそれで包み込む。

「決まりですわね。今日から私たち、お友達ですわ」

「え、えっと」

「ね? これからきっと仲良くなれますわ。天子様、よろしくお願いしますわ」

「う、うん!」

 神楽耶の勢いに押されていた天子は、しかしその胸中の喜びを隠し切れずにほころぶような笑みを見せた。多少強引すぎるきらいがあるようで星刻としては苦笑を禁じ得ないが、他者との付き合い方を知らない天子にとってはこれもまた良い刺激になるかもしれない。危険があれば排除することを念頭に置いておけば、彼女たちの距離の取り方に口出しをするのは控えるべきだと思った彼は、そっと天子の笑顔を見遣った。

「天子様、私のお友達をご紹介させていただいても良いかしら?」

「神楽耶のお友達…?」

「ええ。私、ゼロ様の妻代表なんです。他の方たちも天子様ときっとお友達になれますもの」

「えっ…妻代表?」

 小首を傾げた天子は、それが然程異常なこととは思っていない様子で、神楽耶の提案に興味と期待と他者に接することへの僅かな不安だけを覚えているらしかった。しかし、出来たばかりの友人の満面の笑みに背中を押され、然程悩むこともなくこくりと頷いて見せる。自称「妻代表」の言葉に耳を疑ったのは、星刻の方だった。現在の日本…エリア11になるまでの、現代の日本では一夫多妻制は採択されていない。ブリタニアがかの地を「エリア11」としてからであれば皇帝の一夫多妻制をはじめとして違和感があるとは言い切れないが、それにしてもこれまで人というより指導者、指導者というより希望としての「記号」としての側面が強かったゼロを思うと意外という他なかった。言葉の意味を理解して思わずゼロの奇妙な仮面を見詰めるが、無論彼は説明をはじめとした一切の言葉を発しない。

「…ゼロ?」

 低く尋ねてみるが、彼はまるで彫像にでもなったように無反応だった。否、見えない仮面の下で僅かに視線を逸らされた気がするが、確証はない。言葉を重ねるべきか迷ったところで、影のように黒づくめの男の肩が僅かに下がっていることに気付いた。それを目にしたことが原因なのか、当初発するつもりだった問いはなんとなく胸の裡に溶けてしまう。暫し逡巡して、星刻は気遣うようにそっと肩を叩いた。
 なんとなく、ゼロという男が少しわかったような気がしたが、それを口に出すことは憚られたので星刻は無言で右手を差し伸べる。同じく無言で握手に応えるゼロの傍らでは、楽しげに微笑む神楽耶と彼女につられるように満面の笑みを浮かべる天子が嬉しそうに今後について語り合っていた。
 













 呆気ないものだと思いながら、頬杖をつきかけた彼女は短く自身を叱咤した。そんな行儀が悪いこと、今までただの一度もしたことがない。優しく丁寧に育ててくれた最愛の人に心中で詫びながら、少女は卓上の電話を取り上げた。豪奢な装飾にまみれた室内でその機械はいかにも機能のみを追求したものだったが、目立って見劣りしない程度の重厚さを保っているのはさすがというべきだろう。尤も、そんなものに意味など何もないが。
 無機質な音に待たされることもなく繋がった相手に言葉をかける少女はいかにも可憐で、口調もこの上なく愛らしかった。

「シュナイゼルお兄様はいらっしゃいますか? 陛下から内々のお話があるそうなので…」

 その天使のような声音とは裏腹に、挨拶もなしに突きつけるような言葉に通話相手は一瞬ひるんだようだったが、しかし反駁することもなく短い了承の意を返す。それも当然と言えば当然だった。通話先のたおやかな印象の声の主が誰だったとしても、皇帝の居室からの通信で無礼を指摘することはかなうまい。それがわかっているからこそ、彼女は返答に満足して通話を切った。
 そのままふう、と小さく息を吐いて足元に横たわる物体を爪先でつつく。それもまた随分と行儀の良くない行為だったが、あまり気にすることでもないと思い直した。彼女は誰よりも愛らしく微笑んでいなければならないが、その微笑みを受け止めてくれる相手はここにはいない。それなら、「誰も知らないこと」は「無かったこと」にしてしまってもいいだろう、それが彼女が辿りついた結論だった。
 それは彼女にとって唯一の結論であり、もがきながら掴んだ一本の藁でもある。
 その結論に縋ることでしか、彼女は立っていられなかった。息をすることすら出来なかった。

「もう少し簡単なのかと思ってましたけど、慣れって大切なんですね」

 胸の奥から重い息を吐き出して、小さな気合いと共に力を込めた。それで漸く、馬鹿馬鹿しくも忌まわしい作業が終わる。
 ここに来る前、廃棄物を引き摺って歩いた施設の中は随分特殊な道具で溢れていた。どれもこれも名前すら分からないものばかりだったが、不思議と何に使うものなのかはわかる。否、わからない筈がなかった。それらは、人を材料にした実験を行う場所には不可欠の、人に対する「工具」なのだから少し頭を働かせれば使い方はなんとなく想像できる。正しいのかどうか確証は得られなかったが、不恰好ながらも目的は達成できたのだから良しとしなければならなかった。自身にそう言い聞かせながら、彼女は辛うじて持ち運べる大きさに切り落とされたそれを、この上なく上等に仕立てられたマントでくるむ。鮮やかな真紅の布地に、深い同系色の染みが広がった。
 赤く染まってしまった両手に視線を落として、少女は短く自嘲する。ほんの数日前には想像もしなかったことだが、今となってはかつての穢れを知らぬ純白こそが夢のようだった。
 一般的に、人は「夢を見続ける」という選択肢を愚かだと笑う。それが高い目標を掲げる姿勢としての「夢を追い続ける」ならばその限りではないかもしれないが、ただ単に甘く美しい夢に浸って目覚めないことが現実逃避だと、そのくらいは彼女も知っていた。だが、気付いてしまった瞬間虚空に放り出されると知っていながらそれでも目覚めることを選択できる人は多くないだろう。少なくとも少女にはその選択肢は選べない。しかし悲しいかな、彼女は分岐点に立つ自由もその先を選ぶ権利も与えられず冷たい現実を押し付けられただけだった。
 あの薄暗い施設で歪な荷物を処理した後、爪が折れた指先に漸く痛覚が戻ってきた瞬間に、彼女はただ「会いたい」とだけ思った。全て夢であればと願うが、それがかなわないならせめてもう一度だけでもあの優しい人に会いたい。何もかもが嘘だった少女にとって、彼に対して感じる思慕の念だけが真実だった。悲嘆と共にその事実を噛み締めた少女の脳裏に、ふと暗い疑念が過る。この気持ちに嘘はない、それだけは何があろうと間違いないと断言できるが、「嘘にされる」可能性はあるのではないか。今日この日まで、言葉にするまでもなく信じてきたものが簡単に打ち砕かれたように、自身の胸中に唯一残った真実を覆される可能性がある筈だった。
 その能力を持った男が、少女を「ナナリー」にしたのだから。
 その事実に気付いた瞬間、彼女はそれまで言葉でしか知らなかった殺意という感情を理解した。否、彼女こそが殺意の体現者になったといっても過言ではない。つい先ほど自らの手を汚したときは、必死のあまり思考の余裕がなかった。だが、今は違う。可憐な両目に涙を溢れさせた少女の裡に宿ったのは、底冷えするほどの明確な意思だった。手段は問わない。あの子供が喚いていたように、自身はあの男のもとに送られるのだろう。その時、必ず機会がある。なければ作ればいい。この施設の話題を出せば、既に物言わぬ子どもの名前を囁けば、必ずあの男は隙を見せる。

 そうして彼女は、行動の結果を手に入れた。
 実に呆気なかった。奪われた…否、元々持っていなかったものを見せつけられた痛みに比べて、老いた男の命はあまりにも軽すぎる。虚脱と小さな安心を手に入れた少女は、しかしそれが一時の誤魔化しに過ぎないことを知っていた。唯一彼女に残された「心」だけは守ったが、それはこれまでの日々を取り戻す担保にはならない。このままでは少女は命が続く限りずっと、自身が彼の妹ではないことが露見しないことを祈り、僅かな物音にもおびえながら生きていかなければならなかった。
 それはいい。いや、よくはないがまだ耐えられる。
 問題は、事実が露見した後のことだった。あの優しい人は、彼を騙し続けてきた自分を憎むだろうか。恐らくそうはなるまい。運命に翻弄された少女を憐み、本物の妹を探しながらも出来るだけ今までのように接してくれるだろうことは想像に難くなかった。優しい他人としてのその態度こそが、彼女を打ちのめす。
 これまで誰がルルーシュと親しく接し、誰が彼に恋情を抱こうとも気にせずにいられたのは、自身が彼にとっての特別だったからだ。何があろうと揺るがない兄妹という絆が、彼女を支えていた。それを信じていられるからこそ、少女は両足が萎えても光を奪われても微笑んでいられた。その絆を奪われることは、彼女にとってすべてを否定されるに等しい。死んだ方がマシだとは良く言ったものだ。むしろこの事実を突きつけられるくらいなら殺してほしかった。だが今となっては、彼女は自ら死を選ぶことは出来ない。
 最愛の兄に拒絶されるくらいなら命を絶ちたいという気持ちに嘘はないが、恐怖に囚われた少女は「その先」を考えてしまった。自分が死んだあと、万が一兄が真実に辿りついてしまったら。もしも彼に、今まで一緒に暮らしてきたのは妹などではない、赤の他人だと言われてしまったら。その時自身がこの世にいないとしても、それだけは耐えられなかった。それは彼女にとって世界が崩壊する以上に忌まわしい。知られたくない、その感情に取りつかれた彼女にとって、ルルーシュが真実に辿りつく以外の全ての可能性は些事になった。
 どうすればいいのか、考えに考えを重ねた少女は柔らかな所作でそっと受話器を取り上げる。兄に知られたくない、だが秘密というものはいつか白日の下にさらされるものと相場は決まっていた。ならばどうするか、彼女に採択できる選択肢は多くない。その中で最も確実なものに手を伸ばした少女は、選んだ未来の実現のために地盤を作らなければならなかった。死んでいたはずが生きていたという設定の、保護されたばかりの彼女には思うが儘に使える力がない。それなら、力を持つものを従えればよかった。力を持つ者の目算はついている。ことこうなるまで気にしていなかったが、ブリタニア宰相であるシュナイゼルが胸中に明確な精神的空虚を抱えていることに彼女は気づいていた。耳に心地よい彼の演説は常に、そうあれかしと望まれた内容を秀麗に取り繕っているだけだ。だからあの箱庭のように優しい学園の中で、彼女はシュナイゼルを恐れずに兄だけを信じていられた。数いる皇帝の子供たちの中で、兄こそが最も優れた人物だと確信していたから。
 しかし、今となっては有能な傀儡としてのシュナイゼルは格好の手駒だった。明晰な頭脳を有する彼を無力な少女が従えるのは常識的に考えれば不可能に近いが、彼女にはある種の確信がある。シュナイゼルは、自分と同じだ。他者の都合で与えられたものを自分自身だと思い込んで、辛うじて人としての体裁を取り繕っている。その体裁が破れてしまったのが自分で、シュナイゼルはまだ何も気づいていないだけ。その大いなる違いを除いては、彼と彼女は全く同じだった。

「お手伝いしてくださいね、シュナイゼルお兄様」

 鈴を転がすような、誰の耳にも心地よい愛らしい声が生臭く湿った室内に場違いに涼やかに響く。
 彼女はすべてを決めてしまっていた。シュナイゼルの空虚で無垢な精神を染めてしまうには、一滴のインクがあればそれでいい。これまで「第二皇位継承者」としてのみ生きてきた彼の胸中で、個人としてのシュナイゼルを目覚めさせるにはそれ以上の労力は必要なかった。否、それ以上の労力など使っている暇はない。愛する兄を失わないために、既に破れかぶれの世界がこれ以上崩壊してしまわないために、彼女には大きな仕事が残っているのだから。

「お兄様、」

 口に出すだけで胸を刺すその言葉は、シュナイゼルを示すものではない。唯一の兄を思って毀れた声には、それ以上いかような言葉も続けることが出来なかった。囁くほどの強さにしかならなかった切なる呼称は、しかし彼女の決意を後押しするには十分の威力を有している。ゆっくりと両の掌を胸の前で祈るように握りしめた少女は、僅かな沈黙の中で自身の決意を確かなものに変えていた。そもそも、もう後戻りは出来ない。
 最愛の人には全てを知らずに一生を終えてほしいが、聡明な彼のことだからそう遠くない未来、きっと真実に辿りつく。そうなる前に。

「…お兄様」

 そうなる前に、彼女はルルーシュを殺さなければならない。そうすることでしか、彼女の唯一残された世界は守れないのだから。
 頬を滑り落ちた涙には愛情と後悔と慚愧の念に満ち満ちていた。暖かな涙が頬を伝う感触は、少女にそれが自身が流す最後の涙だと確信させるものだった。
 














 皇帝陛下の執務室に至るまで、シュナイゼルはただの一人の人間とも顔を合せなかった。それもその筈で、皇帝陛下はかつて自ら開戦目前の日本に送った皇女が保護されたとの知らせを受け、彼女の話を聞くべく人払いをしている。宰相という職にあるシュナイゼルにとって、それは明らかな違和感となって胸に残った。今回発見された皇女は嘗てのマリアンヌ妃襲撃の際の傷が癒えておらず、未だ自らの足で立つことも出来なければその目に光を宿すこともない。端的に言ってしまえば、弱者だった。それを皇帝が態々迎え入れること自体が異例だが、人払いをしてまで対面するとあっては珍しいの一言では終わらない。察するに、皇女…ナナリーはただ打ち捨てられたのではなく、何らかの密命をもって日本に送られていたと考えるのが妥当だった。まだ幼い少女に密命というのも現実的ではないが、彼女の兄であるルルーシュは幼いころから明確に他者と一線を画して明晰だった。マリアンヌ妃襲撃の後の父子の確執そのものが演技だとすれば、密命そのものはルルーシュに下っている可能性がある。

(さて、どうかな)

 自身で描いた可能性を、別の視点から見て冷笑する。馬鹿馬鹿しい、とてもではないが現実的な話ではなかった。しかしなんにせよ、久しく顔も思い出していない妹と皇帝の対談の場に呼ばれた以上、何らかの役割を求められているのは間違いない。優雅な笑みの下に複数の考えを張り巡らせた彼は、そのどれが現実となっても如才なく最良の結果を導き出す自信があった。
 ゆっくりと、さりとて遅すぎることもなく辿りついた皇帝の執務室の扉を視界に収めて、ノックのために右手を上げたシュナイゼルは不図動きを止める。重厚な扉は普段となんら変わることもなく飴色の艶やかさを保っているが、その向こうに言い知れぬ何者かの息遣いを感じる気がした。無論、シュナイゼルが招かれた以上、この部屋には主である皇帝と連絡を寄越した妹がいることは分かっている。室内に誰かがいることを知っていて、なおその気配に違和感を感じる自身を一笑に付した彼が気を取り直そうとした瞬間、重い扉の奥から鈴のような澄んだ声が響いた。

「お待ちしてました。どうぞ」

 入室を促す声はこれ情ないほどに自然な雰囲気を有している。言葉が耳に届いたのと同じタイミングで、誘うように扉が開いた。ほぼ条件反射の体で室内に歩を進めようとしたシュナイゼルは、足を踏み出しかけて躊躇する。
 室内は、見事なまでに真っ暗だった。廊下の明かりが差し込んだ室内に先ほどの少女が座しているのがぼんやり見えるが、明るい場所に慣れた目では明確な様子を見て取ることが出来ない。照明の有無だけではなく、室内に充満した異様な臭気も彼の視覚を阻害した。何に注意を払うべきか、一瞬…否、僅かに半瞬ほど硬直したシュナイゼルにそよ風のように柔らかな声が明確な命令を伝える。

「中に入って下さい」

 文面だけは丁寧な口調は、しかし峻厳な響きとなって直接シュナイゼルの脳を揺らした。状況の把握を最優先事項だと判断した宰相は、命じられるままに室内に踏み込む。それと同時に背後の扉が軽い空気音を伴って閉ざされ、臭気は体に絡みつくように強くなった。生臭いそれの正体を脳裏から引きずり出した瞬間、彼は鈍く空気を切る音を捉える。とっさに対応できなかった彼の腰のあたりに、重い何かが当たって地に落ちた。

「それ、差し上げます」

 相変わらず、少女の声はどこまでも涼やかだった。これを投げたのは間違いなく少女…腹違いの妹であるナナリーだろうが、その振る舞いはシュナイゼルの理解を超えている。これまでの短くはない人生の中で、誰一人として彼にこれほど傍若無人な態度を取った者はいなかった。皇帝ですら、互いの権威に則った待遇でシュナイゼルを時に利用し、時に制している。彼女に真意を問おうとしたシュナイゼルは、しかし口を開く前に自身に投げ寄越されたものが何であるか確認したい欲求に負けて膝を折った。
 この部屋についてからというもの、展開があまりにも一方的過ぎる。自儘に振る舞うナナリー、一言も声を発さず好きなようにさせている皇帝、明確な情報を与えられず現状を推測することしか許されないシュナイゼル。この状態で、何も知らないままに彼女に真意を問うよりは、彼女が投げ寄越した物であったとしてもこの場を構成する何かの情報を得たかった。そのうえで冷静な判断を下すことこそが帝国宰相としての行いに相応しい。
 室内は自身の爪先がどこにあるのかもわからなくなるほどの漆黒に沈んでいるが、先ほどの物体を見つけるのは容易かった。それはやけに手触りの良い布に無造作にくるまれていたためか、転がりもせずに彼の傍らに落ちている。布の上から全体を触った感触では、機械のような感触ではない。危険物ではないのか、そう判断しかけたところで楽しげな声が闇を潜ってシュナイゼルを笑った。

「危険物なんかじゃありません。例えばそれが爆弾だったとしても毒ガスだったとしても、同じ部屋の中でそんなもの使ったら私もただでは済みませんよね?
 そんな馬鹿みたいなものじゃないので安心してください」

 それは聞き分けのない子供を諭すような口調ですらあった。自身の思考を読んだかのように適切な回答に、シュナイゼルは違和感を覚えることなく頷く。彼女の声はこの場に、そしてシュナイゼルの疑念に対して実に適切だった。敢えて言うなら、適切すぎた。シュナイゼルが一切声を発しないにも関わらず彼の行動を正しく把握し、その胸中の疑念すらも読み取っている。普通であればその事実こそが不自然だったが、人の心中を読み、その期待に応え続けることを常としているシュナイゼルにはそれを異常であると認識出来なかった。
 純白の手袋に包まれた指先が、上質な布の覆いをゆっくりと剥がす。粘性の強い水音が響き、周囲を取り巻く生臭さがより強くなったように感じた。しかし、彼はその感覚を錯覚と断じる。これまでに帝国宰相として修羅場ならそれなりに潜っているのだから、今更血の匂いに酔うはずもなかった。要するに、皇帝と保護された皇女が対面しているこの場に何らかのアクシデントがあり、その始末として自身に何かを求められているのだろう。或いはシュナイゼルを試そうとしているのかもしれないが、清廉を旨としてきた自身に探られて痛い腹はなかった。
 つまりいつもの他人事に過ぎない。シュナイゼルは漠然と、何を求められても期待以上の結果を出す自信を伴って布を払った。

「、」

 質問を口にしようとして口を開いた瞬間、味を伴うほどの臭気が喉の奥を焼いた。眉根を寄せたシュナイゼルは、手袋が汚れるのも気にせず顕になったそれを撫でまわした。否、既に手袋は重く湿っているので気にしたところで意味がないといった方が正しい。
 「それ」は、粗方の予想通り臭気の原因となる物体の一部だった。力なく柔らかいそれは決して気分が良いものではない。大量の水分に濡れた傷口の反対側には、濡れ固まり、縺れたような長髪がまとまっている。その感覚を認めた瞬間、シュナイゼルは初めて背筋が凍った。何かを確認するために再度口を開いて、先ほど以上に強くなった生臭さに負けて口を噤む。呼気がみっともなく空気を揺らした瞬間、少女がはじけるように笑った。

「気に入っていただけました? でも、不器用だからあんまり上手に出来なかったんです」

 楽しげな、それでいて恥じらうような声はまるで初めての手料理を披露するような愛らしさに満ちている。くすくすと笑う声に、彼は何一つ返すことが出来なかった。胸の中がまるで氷を飲み込んだように冷え込んでいる、或いは熱した鉛を飲み込んだように爛れている。自身が感じている感覚が何なのかすらシュナイゼルには分からなかった。沈黙を続ける彼に焦れたのか、滑るような水を踏む足音が響く。ゆっくりと近づいてくるそれに、彼は一切の対応策を持たなかった。胸を圧迫する息苦しさと「なぜ」という思いが彼の意識を苛む。これまで自分はあらゆる修羅場を潜ってきた。紛争地帯に赴いたこともある、刺客に命を狙われたこともある。そのいつだってシュナイゼルは皇子として、皇位継承者として、宰相として、正しく状況を判断してきた。思考が錆びついたことなどただの一度もない。だが今この瞬間、シュナイゼルは自身の呼吸を整えることも出来ないほどに狼狽していた。
 すぐ傍らの空気が動き、細く頼りない指が自身の手に添えられる。それは決して性急な動きではなかったが、確実に何かを絡め取る意思を持っていた。

「可哀相なシュナイゼル、みんなのお人形さん」
 
 それが正しく音声として発せられたものなのか、シュナイゼルには分からない。たが、空気を欲して喘ぐ胸の裡に押し込まれたその言葉はまるで形あるもののようにシュナイゼルを圧迫した。柔らかく、慈愛を示すように優しく彼の手の甲を撫でていた少女の濡れた指先が、心臓を締め付けるようにゆっくりと彼の両手を包む。

「第二皇子。皇位継承者。帝国宰相…周囲の望むように生きるのは楽しかったですか? いいえ、貴方は楽しかったことなんて、嬉しかったことなんて一度もない。
 ただ望まれたから、そうあるべきだと言われたから従っただけ」

 囁くような声は耳元から聞こえるが、彼女の息遣いを感じることは出来ない。誰かが傍らにしゃがみ込んだと感じたことが錯覚だったのではと思うほど、彼女の声は非現実じみていた。それは一種退屈なテレビの音声にも似ている。まるで他人事のように淡々と言葉だけが過ぎていくが、無表情なキャスターが読み上げる原稿と異なり、彼女の声にはシュナイゼルに対する圧倒的な悪意が籠められていた。憎悪と呼んでなお生易しいそれは、部屋に充満した臭気と絡まりあってシュナイゼルの内側に蓄積される。
 呼吸を乱して蒼白になったシュナイゼルは、事態の改善のためにどうすればいいのか全く分からなかった。何を行えばよいのかという対処論だけでなく、自身が何を求めているのかすら判然としない。ただ精神と五感を苛まれる彼の頬を、少女は哀れむように撫で上げた。

「今まで誰も皇族として、ではなく貴方自身に向き合ってくれなかったんですね。貴方自身も。だから分からないことだらけになってしまった。
 でも、ね? 貴方が信じていた判断基準なんてこの程度のものなんです。盤石なんかじゃないんです。馬鹿みたいな、笑っちゃうような脆いものなんです」

 この程度、そう吐き捨てた彼女が何を指しているのか理解するのは容易かった。忌まわしい臭気、指先を濡らす液体、一切言葉を発しない…言葉を発せなくなった、皇帝。少女はたおやかに言葉をつなげながら、シュナイゼルを、世界を嗤っている。

「可哀相なシュナイゼル。もう貴方には何も、なにも残ってないんですね。望まれたとおりに作り上げた張りぼての理想の内側は誰も埋めてくれないんですもの。
 でも、可哀相だから教えてあげます。私が貴方の中身を作ってあげる」

 囁く少女の声は救いなどではなかった。燃え盛る炎の中に、群れなす毒蛇の群れに、底無しの沼の深淵に、シュナイゼルを突き落すものに違いない。それを知ってなお、震えることも出来ずに言葉を失う青年はその言葉を忌避できなかった。
 これまで、ただ一度の例外もなく、彼に接する全ての人は彼に何らかの要望を持っていた。彼はその通りにより効率的により多数の意見を、複数の要望が競合してしまった場合には現実的に妥協可能な線で調整を行い、実行する。それが「シュナイゼル」だった。言い換えるなら、それが「彼の立ち位置における理想」とも呼べる。
 今日この日まで、あの飴色の扉を開くまでそうやって生きてきたシュナイゼルは、哄笑する少女がブリタニアの絶対性を覆した瞬間、ありとあらゆる判断基準を失った。有力な皇族としてではない、彼個人として初めて知覚する感情を…しかも強烈なまでの恐怖を眼前に突き付けられた彼は、備えなく氷点下の大地に放り出されたに等しい。身を守る術も、そもそもそれから身を守らなければならないという事実も彼は知らなかった。ただ、何もできずに立ち尽くす。誰かが彼に行動を望まなければ、彼は指先一つ何のために動かせばよいのか分からなかった。そうであるからこそ、彼は彼女の言葉を一部の漏れなく拾い集める。少女が何者であろうと、たとえその悪意が自身を余すところなく喰らい尽くそうと、力なく青褪める「シュナイゼル」に行動の意義を与えられる存在は彼女しかいなかった。

「手始めにお掃除から始めましょうか。だってあんまりいい気分じゃないです」

 軽やかに告げる少女の気配が不意に離れ、暫くも待たないうちに水音を踏んで傍らに戻る。膝をついたシュナイゼルを覗き込むようにしているのだろう、次に響いた声は僅かに上方から聞こえた気がした。

「いつまでもそんなものを抱えていないで、お片付けしてくれる方を呼んで下さい、ね?」

 言葉と共に優しく小さな手に導かれ、彼女が持つ通信機に指先が触れた。そこで漸く、シュナイゼルは自発的な呼吸を取り戻す。何を求められているのか理解できるという事実は、彼にとって何よりも得難い救いだった。その行いが結果的に何を齎すのかシュナイゼルには判断できない。否、彼の経験則による判断は一切が無意味だった。彼にとっての大前提だった「ブリタニア」は消え失せていた。それが証拠に、ナナリーの行いをこの広い宮殿に起居する誰一人として止めることも、察知することも出来ていない。世界の定義が失われた今、シュナイゼルの判断には一分の重みもなかった。
 暗闇の向こうで微笑む少女に促されるまま彼は暗闇に横たわる物体の片づけの指示を出す。そのために帝国宰相の仮面を被ることは然して困難ではなかった。今までと同じ、求められた結論を出すための手段にすぎない。

 傍らで少女が笑みを零す、それに伴って背筋を伝う戦慄こそ新しいシュナイゼルの判断基準だった。
















       















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