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「愈々ですね」
 傍らに立つ騎士にそう声を掛けられた少女は、とっさに言葉を返すことが出来なかった。胸に迫る感慨に声が詰まったとも見えるその風情は、その実複雑な心境を処し切れない少女の逡巡の表れでしかない。
 無論、これまで自身に出来る範囲で最大の努力を重ねてきたし、その積み重ねは夢や幻ではないと分かっていた。だからこそ、返答の機をやや逸したと理解しながら白く柔らかい頬に笑みを浮かべる。
「ええ、漸く…漸く、ここまで来ました」
 自らを励まして押し出した声は微かに震えていて、そのことがまだ幼さを残す己が騎士の共感を呼びおこすらしい。並んで立てば僅かに見上げる位置にある枢木スザクの瞳は、早くも潤みかけていた。それをじっと見つめたユーフェミアは、自身が彼と同じように感動に胸を打ち震わせていないことを冷静に把握する。
 嬉しくない、筈はなかった。エリア11。副総督の名のもとに預かったこの地の人々の命を、自分の命と同じように…否、それはどんなに願ってもきっと出来ないから、自分の大切な人の命と同じように慈しむためのはじめの一歩。
 喜びと共に迎えるべき「行政特区日本」の発足の日に心を悩ませることの意味を考えながら、ユーフェミアはそっと目を伏せた。








夢中天 45








「ちょっと、C.C.! これあんたのでしょ、ぬいぐるみ」

「ぬいぐるみとは不躾な。チーズ君だ」

 荷造りをするカレンが、いつまでも片付けられることなくソファの上にくったりとしどけなく横たわる柔らかな手触りのそれを鷲掴みにして、平然とした風情の魔女に投げて寄越す。重量が然程ないため勢いもつかずに宙をまうそれを見遣ったシャーリーは、小さく声を上げた。

「あ、それ知ってる! 凄いポイント貯めないと貰えないやつでしょ?」

 楽しげでもあり無表情でもあるマスコットキャラクターは投げられた際に布が寄ったのか、今は無体な扱いに対する憤懣を秘めた面持ちに見える。どこか恭しい手つきでチーズ君を手繰り寄せた灰色の魔女は、柔らかな質感に頬を埋めて目を細めた。

「そうとも、良く気付いたなシャーリー。これはルルーシュの日々の愛情の積み重ねだ」

「日々の愛情! 羨ましいですわ」

 頬に手を添えて声を上げた神楽耶は、言葉通り羨んでいるのか否か、少なくとも底抜けに明るい声音に妬心らしきものは全く滲んでいない。いつものことながら、ただ一人の男を至上の者として取り巻く同性の集まりにしては和やかなことだ、と心中に呟くC.C.にとってゼロの私室ほど居心地の良い場所はそう多くなかった。だからこそ、明確にではないものの拠点を移すことに寂寥を感じていたらしい。

(意味のないことだ)

 気軽に思い出すのすら煩わしい、忘却の彼方と言うにはまだ生々しさを伴う記憶の中で、どこかに執着したことなどなかった。胸の奥に生まれかけていたそれを一笑に付して、魔女は聖女のように微笑む。

「そう、羨ましいだろう? 私は荷づくりなどしなくとも、このチーズ君さえあれば十分だ。
 だから…カレン? いくら睨んでも片づけを手伝うつもりはない」

「…へぇ、いざって時には指さして笑ってあげるわ、C.C.」

 片付けのために散らかしたという矛盾する現実と散乱する私物の中で拳を固めるカレンに、自分の荷物を粗方纏めたシャーリーが苦く笑った。
 皆が集ってからの長いようで短い期間「ただいま」と「おかえり」で彩った住みなれた拠点から黒の騎士団が兵を引くまで、あと僅か。胸に満ちる感慨を噛み締めながら、魔女はゆっくりと立ち上がった。どうかしたのかと言いたげな視線を向ける少女達に薄い笑みを返した彼女は、しかし明確な言葉は返さないままに部屋を後にする。
 彼女の行動には何という理由もなかった。ただ、最近やけに大人しくしていた共犯者が動く気配を読み取っただけのこと。かの魔王が何を考えているのか微塵も予測できない彼女は、しかし彼が自分を必要とする時期を読み違えることは無かった。どこか誇らしささえ伴う靴音を高らかに響かせながら、C.C.はまだ見ぬ明日へ…即物的に言えば、格納庫へと歩を進めた。


 







 会場には当初予定していた以上の「日本人」が所狭しと犇めき合っている。慈愛の皇女が行政特区日本を提唱してから暫し、エリア11は嘘のように平穏な日々が続いていた。それと言うのも、日本解放戦線が消滅してから名実ともに最大勢力となった黒の騎士団が完全な沈黙を守っているからに他ならない。否、「完全な」沈黙ではなかった。相変わらず、警察の網にかからない弱者の敵を屠る活動は頻繁だったが、ブリタニア軍との交戦がなくなっている。その沈黙ぶりはやや不気味とも言えるものだった。だが、その事実は確かに日本人の…行政特区に望みをつなぐ日本人の心を慰めている。彼らは出来れば誰かに救って欲しいと思っていたし、その「誰か」は黒の騎士団になるのではないかと漠然と感じていた。だがここにきて事態は大きく動いている。これまで圧政を続けたブリタニアが、優しく細やかな少女の手を借りて日本人に手を差し伸べたのだ。これを振り払うことは簡単には…否、生活に疲れたイレブンには、どうしても、出来ない。
 だからこそ、黒の騎士団の沈黙は日本人にとって何よりも有難かった。救いの道が提示された後で治安を乱されるという現実的な問題は勿論、黒の騎士団もこのブリタニア皇女の決定を尊重しているのだ、とそう感じることが出来るのだから。

(そう、行政特区日本を提唱してから、ゼロは沈黙している)

 黒の騎士団の活動と自身が守るべき人民の心理が浅からぬ因縁をもって結ばれていることを理解しているユーフェミアは、至極冷静に心中に唱えた。行政特区、その発想は誰に示唆されたものでもない。皇女としてのユーフェミアが最善を模索した結果だった。だが、ユーフェミアを「お飾りの皇女」から「副総督」に変えたのはあの漆黒の男と言わざるを得ない。ユーフェミアは、皮肉な演出家でありながら自身にそっと覚悟の意味を耳打ちした彼であれば、行政特区について何らかの反応を見せると思っていた。だがその実、黒の騎士団総帥としても自室に密やかに届く教師然とした声を以てしても、彼は何も告げていない。

(わたくしは何かを見落としている…?)

 副総督として何よりも人々を愛せと言った彼が、多くの日本人を救う可能性を秘めたこの政策に反対だとは思えない。だが、同じくらいユーフェミアは自身が世間を知らないことを自覚していた。未熟な己よりも遥かに先を見渡せる宰相が、総督として敏腕を振るう姉が、いままでとらなかったこの「行政特区」政策には何か無視できない瑕疵があるのかもしれない。だが、今の自分にはこれ以上の選択肢は見つけられなかった。無駄に急ぐのは愚かだが、悠長に構えるのは時にそれ以上の罪悪となる。人の命は零れおちる砂時計以上に静かに刻々と失われるのだと、そのことを突き付けられてからは「無駄な時間」は何にもまして排除されるべきものになった。
 だが、そうと分かっていても副総督は胸のつかえを気にせずにはいられない。行政特区発足が近付くにつれて、口に入れてはならないものを誤って飲み込んでしまったような、圧倒的なまでの息苦しさが強くなっていった。そうして、ふとした瞬間にはあの面妖な漆黒の仮面を脳裏に思い描く。馬鹿馬鹿しい話だとは自分でも分かっていた。提唱時こそ反対していた姉も、一度決まってしまえばどんな相談も聞いてくれている。各種草案は宰相である次兄に目を通して貰い、太鼓判を貰った。それなのに。
 
(ゼロ、貴方は今何を思っているのですか…?)

 胸の内で唱えたことに意味などない。特区の発足が正式に決定した日、ユーフェミアは黒の騎士団総帥に全メディアの力を借りて呼びかけを行った。内容は簡単だ、式典に参列して欲しい…そして、行政特区の運営に力を貸して欲しい。本来ならば断罪すべき反逆者を晴れの舞台に招くだけでなく、ブリタニアの植民エリアとして重要な政策に用いようとするこの発言は、到底許されざるものだった。黒の騎士団は「正義の味方」という実に曖昧で胡散臭いものを名乗っているが、一度なりともブリタニアに銃口を向けた以上、彼らの本質はテロリストでしかない。
 その彼らに協力を呼び掛ける代償として、ユーフェミアは皇位継承権を擲っていた。行政特区を運営していく以上、ブリタニア貴族としての権力や財力を失うことはできない。そのためユーフェミアが失ったのはあくまでブリタニアの頂点に手を掛ける権利だけだったが、それにしたところで簡単に無に出来るものではなかった。不安に震えそうになる指を握りこんで、「元」皇女は深く息を吐く。無論、懸念は消えない。
 だが、考えられるありとあらゆる甘えは既に許されないと分かっていた。













『本日お集まりいただいた、みなさん』

 決して狭いとは言えない会場に響き渡る少女の声は、機械を通してなお瑞々しく美しかった。それは、この事態を想定して動いた男にとっては一種未来を祝福する鐘の音もかくやというほどに耳に心地よい。まだ幼さを残す頬を僅かに緊張させた少女は指導者としてはいかにも頼りないが、その瞳には鮮烈な光が宿っていた。
 しかし、それでありながら現在の彼女にはただ「緊張している」というだけ以上の危うさがある。まろやかな頬は青褪め、ドレスの陰で握りしめた指先は痛々しいほどに白かった。

(それでいい、ユーフェミア)

 否、そうでなければならなかった。弱者は搾取され、敗者はすべてを失って地に伏す。あまりにも原始的なそのルールは、単純であればこそ覆すには易くなかった。その現状を嘆くものがどれだけ多かろうと、一定以上の強制力がなければ現実は変わらない。
 その意味で、ユーフェミアの採った方法は一番の近道だった。本来であれば他者を見下すだけの地位と権力を持った存在が、まるで奇跡のような慈愛を以てそのたおやかな手を差し伸べる。実に麗しいが、しかしそれだけならば全くもって何の意味もなかった。苦難を知らずに育った者が他者への憐憫だけで施しを与えるのは、いわば気紛れのようなものといって良い。そこにどのような覚悟があろうと、想いがあろうと、憐みだけで人は他者の命を背負えない。しかも彼女が今掬い上げようとしているのは、命のみならず人がましい生活や誇りまでをも含んでいた。そのことを理解すればこそ、彼女は今日この日をただの希望の一日とは思っていない。
 一旦始めてしまったことは簡単にはなかったことにできないと、彼女は知っていた。否、彼女であれば、他でもない「ユーフェミア・リ・ブリタニア」であればこの政策をなかったことにするのに苦労はないだろう。行いの結果が思ったものと違ったからと擲ってしまっても、彼女を溺愛する総督であればそれこそ権力と財力にかけてでもユーフェミアを守るだろうことはわかっていた。そして、それ以降「ユーフェミア」には他者にかけうる言葉は一切なくなる。
「やりなおし」はできる。失敗しても自らが傷つくことはない。
 それがわかっているからこそ、ユーフェミアは自身が決して怖気づくことはできないと理解していた。ほんの少しでも姉たる総督に頼るような気配を見せれば、人々はユーフェミアを嗤い、彼女の言葉を真剣に聞かなくなるだろう。だからと言って我武者羅に周囲を振り切れば、行政特区は幼い皇女の我儘になり下がる。ユーフェミアが生まれながらにもっているアドバンテージこそが、人々の目に映る彼女の決意を曇らせる要因になった。
 そうである以上、彼女が取れる態度は深刻なまでの決意を惜しげもなく前面に押し出すことだけだった。

「ご満悦だな、ルルーシュ」

 口角を上げた魔王を見上げて、同じように笑みを浮かべた魔女が短く声を発する。怜悧な表情をすれば正に人形のようだと称されるべき美貌を有する彼女は、しかしこのところあまり褒められたものではない種類の笑みばかりを浮かべていた。底意地の悪いそれは、心情を共にする共犯者の心根を反映しているのである意味仕方のないことではあったが。どちらにせよ、あくにんの笑みを否定するような美しい性根の持ち主はこの狭いガウェインの中にはいなかった。複座式のコックピットは従来のそれに比べて自由な空間が多いとはいうものの、定員としては2名で十分。意図して警備を手薄にした行政特区日本の記念式典会場から僅かに距離をあけて身を隠すKFは彼らの騎乗する一機であればこそ、邪魔の入りようもなかった。

「そうだな、最低限の条件はクリアした。…動くぞ、C.C.」

 それは魔女が待っていた言葉でもあり、別段必要としていない声でもあった。ゼロとしての演出のためにガウェインの肩に移動するルルーシュが体を落ち着けたことを見計らって、緩やかに漆黒の機体を起動する。演出過剰な黒の騎士団総帥が行う、見様によってはみっともない下準備を眺めるのは共犯者たる彼女のささやかな楽しみだった。心を許した、守るべきものが増えた今となってはちょっとした特権とすらいって良い。

「落ちるなよ、ルルーシュ」

『うるさい、間違っても落とすな』

 モヤシだ虚弱だ貧弱だと笑いものにされる機会が多い魔王だが、実のところ運動神経は悪くないしバランス感覚については褒めても良かった。それでもこれまでに彼が残した輝かしい「実績」を思うと、揶揄にもそれなりの重みが滲む。言った後で喉の奥で笑みを噛み殺すと同時に、通信機越しの声がこちらは苦虫を噛み潰したような風情で発進を命じた。












 皇位継承権という明確な力を失い不確定な未来を掌に乗せた少女は、じっと人々の顔を見ていた。壇上と彼らの間は遠く離れている。それ故に明言できないが、彼らの表情には明るいものが多かった。しかし、全てではない。人の感情はコインの裏表のように単純なものではないとわかっているが、期待と希望と安堵と疲労と猜疑と戸惑いが、そしてそれ以外のあらゆるものが綯交ぜになったような彼らの表情は、人生経験の浅いユーフェミアに簡単に読み解けるものではなかった。しかし、言葉にされないその気配こそが現在の自身へのこれ以上ないほどに明確な「評価」といえる。彼らにとってユーフェミアでは「足りない」。だが、それしか選択肢がないからここにいるのだ。その事実を噛み締めて、行政特区責任者は胸の内に漆黒の影を思い浮かべる。それが不適切な心情だということは理解していても、自身を皇族としてではなく、しかし副総督として見たあの仮面の男の意見を聞いてみたかった。無論、彼が自分を否定したとしても歩み続ける決意は変わらない。それでもなお求めるというのは…即ち、弱さだろう。

(わかっている、頼ることなんてできない)

 心中に言い聞かせながら、同時に隠し切れない心情を自覚する。行政特区に協力してほしかった。非力な自分を助ける存在としてではなく、自分とは全く違った視点を持つ人物として意見を交わしたかった。それは嘘偽りのない本音だったが、愚にもつかない甘えでもある。違う立場からの意見なら、己が騎士たる枢木スザクから引き出すことができるし、困難に直面した時は行政特区の長として助力を求める当てもあった。一人で立たねばならないとわかっていて未だ縋る気持ちを捨てられていない自分を叱咤した瞬間、空が陰る。胸の内に翻った感情を理解できないままに見上げた瞳には、青空の中に不自然に浮き立つような漆黒のKFと、その肩にたたずむ冗談のように現実感のない黒ずくめの男が映った。
 彼を認めた瞬間の心中の衝撃が何に由来するものであったか、ユーフェミアにはわからない。だが、これ以上ないほどに握りしめて感覚を失っていた筈の手に鈍い痛みが戻ったことは確かだった。万感の意を込めて見つめた視線の先の男は、まるで他愛もない世話話をするように悠々と口を開く。ゼロが演出家であることは重々承知しているユーフェミアだが、その余裕に満ちた態度には複雑な思いを抱かざるを得なかった。

「行政特区日本…その成立に、ひとまずは祝意を述べさせていただこう」

 皆が見守る中、黒ずくめの男はまずそれだけを口にした。人の耳目を集めることに特化した彼の第一声は、青空に澄み渡るように朗々と響く。これまで頑なに沈黙を守ってきたゼロの発言に安堵で胸を満たしかけた副総督は、意識して背筋を伸ばして上空の漆黒の男へ視線を投げた。否、彼女は「睨んだ」と称するほうが正確なまでに厳しい眼差しを影の男に向ける。放つ言葉は、決して微塵の震えも見せぬよう腹の底から絞り出した。

「式典に参加してくださったこと、感謝します」

「……」

 柔らかな少女の姿をしていても瞳には「行政特区責任者」としての威厳を乗せた副総督が挑むように見据える先で、男はまるで石のように押し黙った。門出を祝福するような蒼穹の下で、そこだけぽっかりと黒い絵の具を垂らしたような彼とそのKFは、現実味を欠いた存在感に満ちている。注意深く彼へ視線を送りながら、幼さを残す皇族の少女はだまし絵を睨む気分になっていた。もしくは、間違い探しか。だまし絵として見ている絵には本当は現実的な不条理はなく、間違い探しのつもりで注視しているものには実は不一致の部分はない。そうとわかっていて、それでも「何か」を見つけようとしている、まずい例えながらもそれが現在の彼女の心境だった。

「ゼロ、」

「皇女殿下」

 重ねて語りかけようとした声に、硬質なそれが重なる。皇族の発言を遮るなど本来あってはならない無礼だが、それを咎める者などその場にはいなかった。武闘派として名高いコーネリアの将軍にして忠実な部下たるダールトンですら、黒の騎士団総帥と自らが補佐するべき副総督の間の張りつめた空気に息を飲む。誰もが痛いほどの緊張を感じる中で、ゼロは先ほどに比してやや厳しい声音を吐き出した。

「貴女はこの行政特区で日本人を救えると思っているのか」

 それはあまりにも単純な一言だった。しかし、ユーフェミアの胸を打つにはそれ以上の言葉は必要ない。痛みに耐えるように眉根を寄せようとして、皇女は半ば意地だけでその仕草を留めた。誰もがユーフェミアを見ている。日本人に手を差し伸べた者として、そこで不用意に「不安」を見せるのは何よりも避けねばならないことだった。

「それは、」

 勿論です。そう続けようとして、ユーフェミアは言葉に詰まった。これもよろしくない。
 だが、「日本人を救えると思っている」という意思表明は、簡単に口にはできなかった。救いたいと、痛いほどに思っているが自分のとった方法が正しいのかまだ自信が持てない。だから協力してほしいと思った相手は、遠い場所からユーフェミアを見おろしてその胸中の覚悟を問うていた。
 一瞬だけ唇をかみしめた少女は、今度こそ胸の内をすべて吐き出すように明確な言葉を綴る。

「救えると思っているのではありません。…救います、必ず」

 自身が口にしたその言葉が及第点から遠く離れていることはわかっていた。だが、まだ日本人を救えると胸を張れない。行政特区日本を成立させたことについては自分の存在と意見があったからこそだといえた。しかし、発足したばかりのそれは当然ながらまだ何の結果も出していない。明確な力を有するコーネリアやシュネイゼルならばともかく、これまで何の実績も持たなかった自分が一つの回答として示すには、特区日本はまだ弱かった。明確な意思と希望を持ちながらもそれを実現する方法がわからず、自身の能力が不足していることを痛感して忸怩たる思いを噛み締めるユーフェミアの耳に、遥か上空から冷厳な声が届く。

「ユーフェミア皇女殿下。残念ながら、それでは足りない。
 貴女が救ったつもりになっているここに集まった人々の数よりも、現在も迫害されている日本人はなお多い。差し伸べた手を取ることすらできない人々を、今の貴女は救えない」

 ばっさりと切り捨てるような声音に会場のそこここに配置された軍人たちが色めき立つ。お飾りだと嗤われようと、酷評を受ける少女は彼らが守るべき皇族だった。飛行するKFから見下ろすという不敬を歯軋りして看過していた彼らにとって、黒の騎士団総帥の暴言はどこまでも許しがたい。しかし、激高した彼らが声を上げるよりも早く、暴言を受け止めたはずのユーフェミアはこれまでと打って変わって憂いを払ったような澄んだ声を発した。

「今は…ゼロ、貴方はわたくしには今はまだ彼らを救うことはできないというのですね」

 遠く見上げた先の人影は小さく、その仕草など正確に見て取ることは出来ない。だが、彼女にはゼロが頷いたように見えた。
 救えないと言われたことは、そう評される自身の能力は嘆くべきだが、本来ならば暴言ともいえるゼロの言はこれまでユーフェミアが受け取ったどの言葉よりもすんなりと胸の奥に届く。日本人を救えるか。それは、救えないだろう。どうやって救えばよいか、どうすることが救いになるのかも明確に理解していない自身に救えるものがある筈がなかった。では、救えないのか。そのような結果を受け入れることは出来ない。必ず救う、その意思は決して曲げられなかった。
 ぐっと、少女は白い手を握りしめる。皇女として褒められた所作ではないが、そうせずにはいられなかった。

「ならば、救えるまで…彼らを救えるわたくしになるまで、足りないものを積み重ねるまでです。
 今のわたくしの力など微々たるものでしょうが、それなら」

 言いながら、白く美しい手を空に差し出す。柔らかな瑞々しさを思わせるその細腕は、しかし見る者にどこか力強さを感じさせた。

「ゼロ、わたくしに協力してください」

 彼女の提案の瞬間、世界は時を止めた。そう錯覚するほどの静謐さが会場には満ちていた。もとよりメディアを使って協力を呼び掛けていたのだから、ユーフェミアの発言そのものは目新しいものではない。だが、人々の前に姿を晒した皇族が、ブリタニアに刃を向けた経歴を持つ逆賊に助力を乞うその光景は、万人に事実の重大さを改めて認識させるに足るものだった。
 演出効果を狙ってか十分な間を取ったゼロは、これまでになく明朗な声を蒼穹に響かせる。

「行政特区の指揮下に入れという提案ならば、それは飲めない」

「理由をうかがってもよろしいですか」

 味気ないほどにはっきりと下された拒絶に、ユーフェミアは質問を重ねる。しかしそこには取り縋るような惨めな必死さはなかった。まっすぐに空へ向けた視線が語るように、彼女にとってその質問は前進のための事実確認でしかありえない。短い問いを受けたゼロはこともなげに口を開いた。

「理由…そう、理由は我々がこのエリア11と呼ばれる日本を後にするからです」

 それは本日の予定を告げるような気安い声だった。無論、それはこのエリア11では許されない。黒の騎士団がブリタニアへの反逆を企てているという理由のみではなく、彼らがイレブンであれば…否、名誉ブリタニア人であったとしても自由な転居は認められていなかった。それが渡航ということになれば有体な言葉を使えばいわゆる亡命と呼ばれるもので、皇族の前のみならずいかなる他者の耳目にも届かせるべきことではない。

「今の貴女に救えない日本人たちは、これまで以上に過酷な生活を強いられるでしょう。我々黒の騎士団は弱者の味方…であればこそ、彼らをここに置いてはおけない」

 本来ならばざわめきを以て受け止められるべきその言葉に反応できるものは誰一人としていなかった。唯一、影のような男と遥かな距離を開けて正面から向かい合っている幼さを残す副総督だけが彼の言葉を理解している。しかし、それでもなお、そうであるからこそ彼女も言葉を返すことができなかった。
 既に互いしか意味をなさない少女と漆黒の男の間に重い沈黙が垂れる。その状況を招いたのはゼロだったが、軽々と沈黙を破ったのもまた彼だった。

「ユーフェミア皇女殿下、しかし貴女がその手の中の日本人に未来を…その可能性を見せることがあれば、その時は」

 第3皇女は知らずうつむいていた顔を上げる。相変わらず仮面に隠されたゼロの表情はもとよりその仕草一つも読み取れない程に開いた距離は変わっていないのに、ユーフェミアにはゼロがひどく近くに感じられた。それがゼロの口調や発声の違いから生じている感覚であることはまだ演出慣れしていない彼女にはわからない。ともあれ、彼女はこの時確かにゼロを身近に感じた。

「その時こそ皇女殿下、私は貴女の手を取ることを躊躇わない」














 視線の先の少女の表情は見えなかった。だが、そこに何ら問題はない。この状況においてユーフェミアが何を思いどのような顔色をしているか見るよりも正確に思い描くことができるからこそ、ゼロは彼女に対してこの方針を貫いた。彼女が言葉を返すまでの沈黙すら重くはない。少女が何を選ぶか、どのような決断を下すかはわかっていた。しかし、それを簡単に選ぶようでは足りない。自身の状況を反芻し、得られる手段をすべて思い返し、何を願っているかを再確認し、何を背負っているのかを理解した上での返答でなければ意味はなかった。それ故にゼロにはどれほどの時間であれ待つだけの心積もりがある。
 しかし、艶やかな唇から零れ落ちた言葉は想定したよりもはるかに短い時間でゼロの耳に届いた。

「わかりました。それでは、わたくしに力を貸しても良いと思えるまで、海を隔ててわたくしを見ていてください」

 一言のもとにゼロの亡命までを許したその決断は確かに早かったが、しかし声にはこれ以上ないほどの覚悟が見える。痛いほどにそれを感じたルルーシュは、仮面の下で微苦笑した。殆ど必要ないと分かっていたとはいえ試すようなことをしたが、あくまで分かっていたつもりに過ぎないことをありありと見せつけられた以上、笑うしかない。

(そうか、これと決めたら躊躇するのはユフィらしくない)

 本当のことを言えば、躊躇したのは自分のほうだ。演出の範囲で持ち直したとはいえ、彼女に手を差し伸べられたとき、すでに立てた計画を押しやってでもその手を取りたいと思ってしまった。彼女の柔らかな手にこの手を重ね、同じ夢を見てみたいと思わかなったといえば嘘になる。
 だがそれではつまらない自己満足のやり直しになるだけだった。ギアスの存在と皇帝の野望を知り、シュナイゼルの危うさを知っている身として未来を欲するのであればそれでは足りない。だからその手は取れなかったが、彼女の提案を耳にしたとき胸を締め付けた感情はどのような名で呼んでも不適切なほど多様な色を含んでいた。

(ありがとう、ユフィ)

 言葉にできない思いを抱え、ゼロは優雅に一礼した。それがこの会見の終わりの合図になる。
 こうして、ルルーシュはエリア11で行うべき最後の仕事を終えた。
















       















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