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 セシルは幸福を逃した。
 それは肺の中を空にするような深い溜息ではなかったが十分に物憂げで、彼女は自らを戒めるように形の良い唇をきゅっと引き結ぶ。
 それを好ましいと感じるかどうかは別として、普段であれば特派は主任の強烈すぎる個性のせいで世界情勢とは少し切り離された空間を作っていた。しかし今回ばかりは、職員の表情には緊張や落胆が分かりやすく浮かんでいる。
 無理もない、とセシルは思っていた。特派に在籍している職員は純粋な技術の向上を目指して日々の業務についているが、それと同時に「第2皇子の肝煎り」という特派の立ち位置を誇りに思っている者も少なくない。それはもちろんシュナイゼルのカリスマ性に惹かれているということでもあるが、彼を次期皇帝と目し、ゆくゆくは「皇帝直属」になることを夢見ている者も少なからずいた。
 しかし彼らの希望は、突如現れた「ナナリー陛下」の存在によって無残に打ち砕かれている。無論、難しい情勢をシンボルとなりうる新皇帝を看板にして片付け、世界が平らかになってから位を譲らせるという方法があることは誰しも分かっていた。しかし、その方法では戦の道具を作っている特派は「皇帝直属」として活躍する機会を持てないし、何よりそのような見え透いた手段を採るシュナイゼルの下で働きたいわけでもない。
 職員たちが落胆する気持ちはセシルにもよくわかった。
 それとは別に、何かと難しい立ち位置に立たされがちな特派が誇るデヴァイサーこと副総督の騎士枢木スザクは、今回の発表を受けて何ともいえない表情を浮かべた。ナナリー皇女は…否、ナナリー陛下はまだエリア11が日本だった頃に人質としてこの地に送られている。その時にスザクと彼女の間に何があったのか…何かがあったのか、セシルは知らない。聞くべきでもないと思う。
 画面に映し出された新皇帝のまだ幼い線を描く白い頬を見詰めたスザクは、小さく唇を動かしたがそれっきり何も言わなかった。後から思えば、あの時彼は「ナナリー」と呟いていたのだろう。幸い彼の唇は音を漏らしはしなかったのだから、そこに含まれていたかもしれない音のことは忘れるつもりでいる。
 それから。
 伏せていた視線を持ち上げて見つめた先の白衣の男も、神妙な面持ちで端末を見詰めていた。見慣れたはずの顔から薄い笑みが失われただけで、随分と冷たい印象になる。

「…ロイドさん」

「どうかした?」

 思わず声を掛けると、画面から全く視線を動かさない男は平坦な声を返した。何を言うべきかも決めないままに声を掛けたセシルは、答えに窮する。

「どうかした、って…ロイドさんは今回のこと、どう思ってるんですか」

 結局口をついて出たのは、新皇帝が発表されてから誰にも聞けなかった質問だった。ある人には当然過ぎて、ある人には複雑すぎて。
 それをロイドに尋ねてしまった自身の心情を読み解く暇もなく、白衣の男は先ほどと全く変わらない調子の声を発した。

「今回って?」

「ですから、陛下のことです」

 正しくは、陛下を擁立したシュナイゼル殿下について、というべきか。ことここに至って、セシルは自身の動揺に気付いた。
「優しい世界でありますように」。新皇帝がそう願ったことは記憶に新しいが、重厚な皇帝の座にたおやかな少女が座るその様は、彼女の言葉に反して世界情勢の不安定を体現しているように見えたのだ。
 画面から顔を離してセシルの曇った表情を見返した主任は、う〜ん、と間の抜けた声で首を捻る。

「陛下がどうかって言われてもねぇ。まぁ殿下のことだし、何かお考えなんでしょ」

 切り捨てるように言った彼も、今回のことがシュナイゼルの茶番であることを疑ってはいないようだった。語る口調には興味のかけらも感じられない。セシルに問いかけられたから仕方なしに返事していると言いたげな彼は、しかし次の瞬間にふと表情を変えた。

「でもまぁ、目の色は変わってたみたいだけど」

「え?」

 人を化かす狐のように目を細める彼は、たしかにわらっていた。
 思わず聞き返すと同時に、ロイドの端末が「ぴろーん」と間抜けな音を立てる。あまりに場違いで一瞬肩を跳ねさせるが、セシルもよく知るメールの着信音だ。

「待ってましたぁ!」

 それまでの雰囲気を一掃させたロイドは間延びした歓声を上げると端末を持って立ち上がり、その場で無駄に軽やかにターンしてみせる。くるりと回った勢いのまま椅子に腰を落ち着けた彼は、先ほどまでの会話を忘れたように画面にくぎ付けになった。

「もう、ロイドさん!」

「はいはい分かってまぁす」

 こうなってしまえば何を言っても無駄だと知っているセシルは、仕方がないと言わんばかりに息を吐いた。何がそんなに嬉しいのかとメール画面を覗き込みたくなるが、流石に不躾だろうと意識して視線を逸らす。
 一瞬だけ見えたメールの送信者欄には、ニーナ・アインシュタインの名が記されていた。



夢中天 49



 ブリタニアの技術者がメールに歓声を上げている同時刻、黒の騎士団の技術者は見慣れた情報チップを前にキセルをくゆらせていた。聡明な光を宿す瞳を細めてチップを見遣った妙齢の女性は、やや楽しげな表情を浮かべてつやつやと光を反射する仮面に視線を移す。

「フロートユニット、ドルイドシステム、最新鋭のブリタニア製KMFのシミュレーションデータ…で、これは?」

 彼女が口にしたのは、ゼロがこれまで数回にわたって彼女に提供したデータの種類だった。詳細に分類するとさらに多くのデータを渡しているが、その中でも常識的に考えれば「有り得ない」と判断されるものを並べあげた唇は、緩い笑みを形作っている。

「アンタが寄越すデータ、プリン伯爵の特徴が見え隠れしてるのよねぇ」

 言葉だけを注視すればデータの出所に疑問を呈しているようだが、その実ラクシャータはゼロがどのような方法でそれを得ているのかについて深い興味を抱いていなかった。物事の本日を見抜く力を有する彼女の眼差しは、そのような些事に拘っていない。それを些事と切り捨てられるだけの胆力が備わっているからこそ、彼女を信頼し、ここまで手札を明らかにしているのだが。

「今後、黒の騎士団に旗艦が必要になる。
 中華から提供された戦艦にガウェインのドルイドシステムを搭載し、実用可能なレベルに調整してほしい」

 そのためのデータだ。短く告げると、楽しげに細められていた瞳が驚きに見開かれる。
 彼女の反応は当然ともいえるのものだった。黒の騎士団は迫害された人民を連れてあくまでも平和裏に国外に脱出し、友邦たる中華の下漸く安寧を得ている。無論、誰しもがそれは一時のものでしかないと思っていたが、そこにきて「ブリタニア新皇帝」の即位が発表された。
 可憐な少女が祈るように口にした「優しい世界でありますように」という願いは、それまでの「不平等と競争の是認」から一転してブリタニアの侵略主義を否定するものとして人々に受け入れられつつある。やや不明瞭な印象を受けるのは、彼女がそれ以外一切の言葉を口にしていないからだった。新皇帝ナナリーはその短すぎる言葉を最後に、外部に対していかなる意思表示も行っていない。
 何にせよ、さらなる躍進を求めていたブリタニア関係者は落胆し、危うくブリタニアの牙に噛み砕かれんとしていた人々はそっと安堵の息を吐きつつ決してブリタニアを刺激しないことを胸に誓った。腹を満たして眠りについた虎の尾を踏んではならない。
 人々がこうも安易にナナリー皇帝を信頼した背景には、エリア11の「慈愛の皇女」ユーフェミアの影響があった。ブリタニアは変わるのかもしれない、そんな予感とも期待ともつかない雰囲気の中で、ゼロは全く逆の判断を下したということになる。
 まじまじとゼロを見返したラクシャータは、しかし僅かな時間を置いて先程以上に好意的な表情でキセルを揺らした。

「ふぅん…期限は?」

「ひと月」

 酷ともいえる回答を短く返すと、明晰な頭脳を誇る女はにやりと笑った。面白い、とその瞳がそう告げている。

「そうねぇ、アンタにも鹵獲機じゃない正式な専用機があっても良いと思ってたことだし」

 総帥に対するそれとしてはあまりに砕けた口調を崩さなかった技術者は、最後まで不遜な態度でしなやかに身を翻した。
 彼女に告げた期限を再度胸の内に繰り返して、ゼロは静かに敵将の思考に思いを馳せる。
 現在の情勢を鑑みるに、皇帝の崩御に対してナナリーを新皇帝に据え、その即位を直ちに発表したシュナイゼルの狙いは中ったと考えるべきだろう。現状維持をこそ最も貴ぶ彼は、各地の争いを沈静化するためにナナリーを利用した。シャルル前皇帝の強烈なイメージから乖離した清純なナナリーの声音は、人々をして争いを忌避さしむるに相応しい。

(だが、それだけでは弱い)

 ゼロが今はひとまず成功しているユーフェミアの「行政特区」が長く続かないことを予測するように、シュナイゼルもまた新皇帝の印象に頼った現状維持が脆弱であることに気付いていない筈がない。更に言うなら、彼に限って人々の可能性を信じるという選択肢を取る筈がなかった。必ず、シュナイゼルは彼にとって確かなもの…即ち武力を以て「人々の望む現状維持」に乗り出す。

(つまり今回の措置は時間稼ぎに過ぎない)

 そう断定しながら、かつてシュナイゼルと干戈を交えたルルーシュは微かな違和感を覚えていた。世界情勢は落ち着いている。ナナリー新皇帝の効果は確かに見えている。
 しかし、それはあくまでも結果論だった。シュナイゼルは「ナナリー」を使うという一種の賭けに出て、それに勝った。違和感はそこに端を発している。
 確かに世界の平和を願ったナナリーは異議を許さないような一種荘厳な雰囲気を纏っていた。そこにユーフェミアの影響を加味したとしても、負けない戦を旨とする帝国宰相の採る手段としては賭けの要素が強すぎる。8割以上の勝率の裏に保険を複数用意して初めてベットするのがシュナイゼルという男だとすれば、今回のことはあまりにも彼らしくなかった。

(読み切れていない手の裏があるということか…)

 ならば、それだけの手札はいつ準備したのか。コードが伝えた皇帝の崩御とナナリーが即位するまでの僅かな期間に何を用意したのか。否、既に用意してあった「皇帝崩御」をトリガーとする仕掛けに、急遽ナナリーを嵌め込んだ? それこそ彼らしくない。

(考えられる可能性は657通り。しかし、その全てに僅かな瑕疵が残っている)

 マントの下で細い指を握りしめたゼロは、現時点ではその手の中に何も掴んでいないことを実感せざるを得なかった。
 まだ何も終わっていない。ゼロの手の上で世界が思い通りの脚本を演じ切るまで、願った未来は不確定なままなのだから。



 少女は皇帝の座に興味など無かった。正確にいうなら、今もそんなものには塵ほどの価値もないと思っている。それでも大人しく皇帝と呼ばれることを許したのは、彼女が選んだ実務者たるシュナイゼルがその方法を採択したからだった。
 彼女がシュナイゼルに命じたことは一つ。今このときまで、たった一つだけだった。
 その権威を表すように瀟洒な車椅子に体を預けた少女は、まるで意識してそうしているかのようにゆっくりと帝国宰相に顔を向ける。世界を否定するかのように降りた瞼はピクリとも動かない。冷え切ったように無表情を貫く彼女は、まさしく人形のように美しい唇をそっと動かした。

「シュナイゼルお兄様。わたしがお願いしたこと、覚えてらっしゃいますか」

 質問の形をとった彼女の声に、許される答えは一種類しか存在しない。それを理解しているシュナイゼルは、努力して声帯を震わせた。

「可及的速やかなゼロの抹殺…ですね」

「直ちに、です」

 回答を正す少女の声音は子供に花の名前を教えるように優しいが、その実一分たりとも誤りを許さない厳しさに満ちている。呼吸にすら痛みを覚えながら頷いたシュナイゼルにひとまず満足したのか、麗しい少女は小さく首を傾げてみせた。

「もう一つ、お願いしたいことがあるんです」

「何なりと」

 震えるような自らの返答を聴いて、シュナイゼルはもう随分昔のことのように思える部下の声を思い出していた。「何なりと」。なんと愚かな答えだろうと、その時は思っていた。命令であれば実行するのは当然であり、そこに受命者の意識は関係ない。逆に言えば、本当に命令者の心のままに下命されたところで、能力以上の命令は実行できない。つまり、何なりとお命じ下さいというその答えには何も意味などないのだ。だからこそ、嘗てそう答えた部下たちに「ありがとう」と微笑みを返しながらその愚かさに呆れていたが、今になって初めて彼らの気持ちを理解した。
 あの一見無意味な言葉にも本当は意味がある。そうとでも応えなければ、恐ろしくてその場に立っていることすら出来ないのだ。どんなに些細でも構わないから、服従しているのだと示し続けることで恐怖を飲み込む。シュナイゼルは眼前の少女によって、初めて他者への共感を覚えていた。
 彼の内心を斟酌せず、細く可憐な指先が二人の間の床に向けられる。淡い桜色の爪が場違いに艶やかだった。

「ここに」

 指し示されたのは上質の絨毯だった。他では見られないような素晴らしい手触りのそれは、しかし土足で踏みにじられるものでしかない。そこにまっすぐ指先を向けて、少女らしい小さな唇が丁寧に言葉を紡ぎだした。

「ナイトオブシックス…アーニャ・アールストレイムを連れてきてください」

 当然ながらその声音は、客人を招きたいという温度ではない。事実、彼女はナイトオブシックスを客人として遇するつもりはなかった。己が忠実な騎士として召還するのでもない。
 その声に顕著に表れた思惑を読み取ってか、シュナイゼルが身を竦ませるのを少女は無感動に見ていた。見るもの全てを魅了すると称された美貌が青く凍りついた様は優れた造形に危うさが相乗され、さながら美術品といった風情なのだろう。しかし、シュナイゼルという男は彼女にとって何の価値もなかった。ただ、彼女にとって唯一意味がある存在と半分とはいえ正しく「兄弟」であることに羨望と憎悪を感じる相手でしかない。
 だが「アーニャ」は違った。
 少女はこの世界で最も憐れな人物は「アーニャ」だと思っている。愛する人の温もり、優しさ、人生において価値あるすべてのもの、本来であれば有していた筈のそれらを「アーニャ」は無残に取り上げられたのだ。これ以上憐れという言葉が似合う者はいないだろう。そして、「アーニャ」以上に幸福な者もまた、存在しない。
 今でも覚えている、朝を告げる優しい声。溢れんばかりの愛情を込めて呼ばれた名前。伸ばした手を握ってくれる温もり。恐ろしいものなど何もないと無邪気に信じていられた時間。それらを受け取る正当な権利者たる「アーニャ」の存在が、少女の過去が偽りでしかないと指摘する。
 だからこそ、彼女は「アーニャ」の存在を許してはおけなかった。
 必ず「アーニャ」を滅さねばならない。
 それは憎悪などという感情を遥かに超えた意思だった。

「、」

 それまで辛うじて言葉を紡いでいたシュナイゼルが掠れた息を吐いた。誰よりも空虚で愚かでありながら有能な帝国宰相の呼び名も高い男は、ナイトオブシックスの有用性を考えているのかもしれない。しかし、それが少女にとって何の価値もないことなど、今更言葉にして説明されるまでもなかった。血の気の失せた顔を伏せ、唇の動きだけで「御意」と返す。
 まっすぐに伸びたまだ幼い少女の指先が絨毯を示す意味を、彼は正しく理解していた。生死を問わず。そんな分かりきったことは告げもしない少女は、姿形だけはいつかのようにあどけない。

「お願いしますね、シュナイゼルお兄様」















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