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降り始めたばかりの雨は幾らも待たずに視界の全てを呑込む。
周囲が鈍く白い膜に覆われてしまってから、どれだけの時間座り込んでいたのか少女には分からなかった。
降る雨は僅かな昔に自身が望んだとおりのことだったにもかかわらず、実現してしまえば何の意味もない。
否、それだけではない。少女は現在、自身を含む全てのものに意味を見出せずにいた。
ただ降り続く雨は確実に彼女の体を冷やす。
それを厭う様子もなくゆっくりと立ち上がった少女は、自らの体の使い方を忘れたかのように微かに蹣跚めいた。
転倒するまでもなく、水溜りに足をついて踏み止まる。
周囲の雨音に掻き消されながらも、小さな水跳ねの音が耳に届いた。
無感情に視線を向ける少女は、既に全身水浸しといって良い状態であり、水溜りによる被害は問題にすべくもない。

「…汚い」

だから、少女の呟きの本当の意味は彼女自身にも分からなかった。










夢中天 32








起きて直ぐに兄のところへ向かおうとしたのに、突然降りだした雨に邪魔をされてしまった。
始めから傘を携行しなかったことからも、自身が常の注意深さを忘れてしまっていることを感じてロロは心中息を吐く。これまで、任務の際に二度手間を要したことなどなかった。
学園が視界に入った時点で、足を止めてもう一度自らに問いかける。
手抜かりはないか。いつものように、否いつも以上に手際よく兄の生命を奪ってしまえるか。
それは行動を決意した時から何度といわず繰り返した質問だった。これも、それまでの任務では決して行わなかった。
ロロはこれまでずっと嚮団にとって都合のよい道具であり続けていたが、今日初めてその枠を超えた行動をとる。今日を境に欠陥品になるのだろう。
しかし、不良品として廃棄されようとロロには兄を苦悶の内に絶命させることなど出来なかった。

(兄さん、僕は…)

彼に感謝されたいとは思っていない。ただ、ロロが出来ることなどこれしかなかった。
いつしか伏せていた瞼をゆっくりと持ち上げ、再度手順を確認する。そこに不安はなかった。
そうして小さく頷いた瞬間、ロロの視線の端を見慣れた明るい色が横切る。
それは兄から受け取った幸福の次にロロに学園を、慣れない日常を思い起こさせる色だった。
我知らず息を潜め足音を殺して対象に近づき、その姿を正面から視界に納めた瞬間、ロロは常の彼ならば犯す筈もない失態を演じた。

「…シャーリーさん」

零れてしまった声に反応して振り向いた彼女は、いつもの明るい表情を何処かに置き去りにしている。
それだけならば近親者を喪った物として珍しくないが、ロロが見た少女の表情は哀しみすら忘れて、冷たく凍てついていた。
彼女に告げる言葉を迷って視線を動かした瞬間、少年はあまりの衝撃に目を見開く。
いつも朗らかに微笑んでいた彼女の、その不器用で優しい手に嫌になるほど見慣れた、彼女にはちっとも似合わない銃器が握られていた。

(バレた!)

彼女の父親はゼロの関与した戦場で命を落としている。
ただの学生でしかないシャーリーがどうやって武器を手に入れたかは分からないが、人の命を奪う道具を携えてここにいる以上、彼女の目的は一つしかない。
彼女は本当に、傍から見ていても当てられるほどに兄に想いを寄せていた。
だから、それでも銃を手に取らなければならなかったから、少女の瞳が凍りついているのだとしたら。

(シャーリーさんなら、兄さんを苦しめない)

憎しみだけを兄に向けているのなら、彼女の心はもっと燃え滾っているだろう。虚しさを感じるのは兄の命が喪われてからでも遅くない。しかしシャーリーは、既に涙にして誤魔化すことも出来ないほどに苦悩していた。ならば、兄を嬲ることなどしないだろう。
それは全て憶測でしかなかったが、ロロはそれが外れているとは思えなかった。
ひとめ視線を交わしただけであるにも拘らず、彼女と自身の心中が一致していることが痛いほどに感じられる。

(シャーリーさんが、兄さんを)

殺す。そう脳裡に浮かんだ瞬間、ロロはそれまで感じたことのない恐怖に言葉を失った。
兄は苦しまないだろう。潔い彼のことだ、自分が時間を止めてしまわなくても、彼女の凍った視線に射抜かれながらその一生を終わらせてしまうに違いない。
そして、あの優しい兄は今までロロが数え切れないほど処理してきた死体になってしまう。
ただの肉の塊に。兄の形をした、ただそれだけの物体になる。

「嫌だ…僕は、僕は、また!間違っていたんだ」

兄が苦しまなければ良いと思っていた。でも、本当はそれだけじゃない。
微笑んでいて欲しい。彼に、彼の幸せを感じていて欲しい。
感謝されなくて良いと思った、憎まれても良いとすら思った、それは彼を呆気なく殺すためなんかじゃない。
兄が笑顔でいる世界を望むことが、その方法がロロには分からなかっただけだった。

(嚮団の道具だった僕には分からない。
でも、きっと「ロロ・ランぺルージ」には分かる筈なんだ、僕の兄さんの幸せが!)

雨に濡れた少女に無感動な視線を向られて、ロロは漸く自身の望みを把握した。
それまで片手に差していた傘を放り投げ、懐中に隠していた拳銃を取り出す。鈍く光るそれを視界に入れても少女の表情は動かなかった。
分の悪い賭けかもしれない。しかしロロは問わなければならなかった。
それまでの自らと決別するために、この瞬間から生きる自身を確立するために。
降りしきる雨を意にも留めず両手で銃を構え、銃口をつい先日まで笑いあっていた先輩に固定する。
そして、絞り出すように祈るように言葉を綴った。
返答によっては、引鉄を引く覚悟を固めながら。

「シャーリーさん、貴女は…貴女は兄さんが好きですか」

意図せず涙が零れるのは、彼にとって二度目のことだった。













あの男に声を掛けられてから、どうやって学園まで辿り着いたのかシャーリーは覚えていない。
そもそもあれが何時のことだったのかもはっきりとは分からなくなっていた。
しかし、それで良い。何も考えたくなかった。
そうして全ての思考を停止したまま、表面上は何も変わらない学園で会ったのは生徒会の後輩だった。
震える声が自身の名を呼ぶ。ゆっくりと向けた視線の先で、彼はそれまでに見たこともないほど硬い表情を浮かべていた。
彼が何を感じているのかシャーリーには分からない。緊張、不安、もしかすると恐怖であったかもしれない。
眼前の後輩は、シャーリーの想い人にとても懐いていた。今日も、休日を利用して彼に会いに来たのかもしれない。
彼も騙されているのだ。ルルーシュはゼロなのに。ブリタニアの敵で、たくさんの人を殺して。
ルルーシュの罪は消えない。勿論シャーリーの罪も。
だからゼロを「どうにか」しなければならないのにロロはじっと自身に視線を向けていた。
彼もどうにかせねばならないのだろうか。でもきっと、そんなのおかしい。
働かない頭の中で思考を持て余していると、少年は折角差していた傘を放り投げて、懐から何かを取りだした。ぼんやりと見つめた彼の手の中には、鈍く光る道具が握られている。
自分が持っているものと同じ、人を殺すための冷たい道具が。
それまで普通に通っていた学園で、放課後に笑いあっていた人物が人殺しの道具を構える。
出来の悪い冗談のようだった。
シャーリーの日常が浸食される、その異常な危機感に今度こそ少女の精神が崩壊しそうになった瞬間、少年は震えながら声を絞り出した。

「貴女は兄さんが好きですか」

それは短い問いだった。
ルルーシュの正体を知ってから、シャーリーはずっと様々な質問を自身に投げかけ続けていたが、その一文だけは考えられずにいた。
先ほどの男も、聞きたくないことや考えたくないことばかり囁いたがその一言は言わなかった。
彼が兄さんと呼ぶ少年が、いつだったか自分に穏やかに微笑んでくれた彼が好きであるかなど。

「…好き…。わたし、私はルルが好き…!」

考えられないまま言葉にして、初めてシャーリーは自身を掴んで離さなかった苦悩の正体に気付く。
戦場で父は死んでしまった、ルルーシュはブリタニアの敵だった。
それを知って苦しんだのは、それでも自身が彼を愛していたからに他ならない。
嫌いなら、憎むことが出来れば既に全ては決していたのに、それを阻んだのはシャーリーが何よりも大切に温めてきた恋心だった。
雨に濡れて悴んだ手に感覚が戻って来る。その途端に手の中の銃が恐ろしくなって、彼女はそれを手放した。ごとりと鈍い音が響く時には、後輩も涙で顔をくしゃくしゃにしながら微笑んでいた。

「はい、僕も…僕だって、兄さんが好きです。
大丈夫、大丈夫です。だって兄さんはまだ生きているんだから。間に合ったんです」

彼の言葉を聞いた瞬間、衝撃に縮こまっていたシャーリーの瞳に緊張が走った。
素早く足下の銃を拾い、ロロの傍らに駆けよる。

「ロロ、白づくめのおかしな人を見なかった!?」

「え、いえ」

「ルルが危ないの!
あの人、ルルのこと殺そうとしてる…!私が行かなかったから、きっとあの人がルルを!」

少女の言葉は状況を説明するにはあまりにも端的すぎる。
しかし、彼女にただならぬ親近感を抱いているロロにとっては十分すぎる言葉だった。

「その人、何処にいるか分かりますか」

「ううん、でもきっとルルの近くにいる」

目で頷き合った二人は、それ以上の言葉を必要とはしなかった。











校門から一直線に、ルルーシュの住まうクラブハウスへと急ぐ。
二人が男と会ったのは、クラブハウスから500メートルほど離れた校舎の影だった。雨を避けて僅かな庇の下に立つ男は、二人の…とりわけシャーリーの姿を見て表情を歪める。

「君さぁ、みっともないよ。自分たちだけ良ければ良いんだ!
そんなだからルルは人殺しになったんだよ!君の所為だ!!
誰かがルルを叱らないといけないんだよ!どうしてそんなことが分からないの」

突然まくし立てた男は、シャーリーの心中を読んだかのように喚きたてる。
それは少女にとって辛い言葉の羅列だった。どうしたってシャーリーはルルーシュの、自分の想う相手の幸福を願わずにはいられない。自己中心的といわれれば返す言葉もなかった。

「お前も!何が兄さんだよ、人殺しのくせに!
ダメだよ、ルルーシュはいけないんだよ。あいつは悪い奴なんだ!
もう良いよ、もう僕がルルーシュを」

「だめ!」

狂ったように喚く男が言うが早いか、少女が素早く動く。
ロロは反射的にギアスを使用しながら、横目で彼女を見遣った。
少女はきつく眼を閉ざして顔を地に向けているが、その両手は真直ぐ前に伸びている。両手に握られた銃を男に向けて。
ロロがそれを知覚した瞬間、彼女の放った銃弾が男の頬を掠めて背後のガラスを破壊した。
周囲に響き渡る轟音を聞くのはロロしかいない。それはまるで、嘗て彼がみた夢の再現のようだった。
全てがおわる夢。
あの夢の通りにこれまでのロロは終わってしまった。今までの人生が全て崩れ落ちる。
その事実を心中に抱きしめながら、少年は男に向かって歩を進めた。時はまだ動かない。

「誰だが知らないけど…兄さんは、僕が守る」

呟いて、シャーリーに向けたものとは違う、使い慣れたナイフを一閃させる。
それは酷く滑稽な事実だった。ルルーシュを殺すためにここに来た筈のロロが、兄に敵意を向ける人物を排除する。
しかし、少年の心中は事実に反して安堵で満たされていた。兄を守れたことは勿論、足下に倒れる人物が自らの先輩でなかったことに対して。
その感情も、兄が自分に与えたものであることは間違いなかった。

「わ、私…!」

物言わぬ物体になり果てた男を視界に納めた少女が、その手から拳銃を取り落とす。
空になった自らの両手を見つめて強張る彼女がこうした事態に慣れていないのは一目瞭然で、ロロは口早に言葉を紡いだ。

「シャーリーさんじゃない!
弾は逸れたんだ、貴女が殺したんじゃない」

弾かれるようにロロに目を向けたシャーリーは、しかし蒼褪めた顔を小さく左右に振った。
その身体は、小刻みに震えている。

「ううん、いいの。私、あの人を撃った…。
ルルのためとか、そんなんじゃない。私が、ルルが居なくなるのが嫌だからやったの。
悪いことだって分かってる、でも私、いま安心してるの…酷いよね」

言って、少女は微笑む。強張ったそれは笑顔の形になどなっていなかったが、ロロにはそれが痛いほどよくわかった。

「ルルが無事で、私嬉しいの」

本当のところ、ロロはあの男が何者であったのか知らない。知らないまま、殺した。
シャーリーの態度やあの男の振る舞いから、彼女に銃を与えたのは彼だったかもしれない。
しかし、それだけで人を殺めるのは早計だったと言わざるを得なかった。
それでもロロが動いたのは、シャーリーがそうしたからに他ならない。
ロロは以前からこの先輩が好きだった。そして今では生まれて初めて感じる共感を彼女に抱いていた。
いつも朗らかに微笑んでいた彼女が無残なまでに雨に濡れて、震えながら零す言葉の数々はロロにとって紛れもない真実だった。

「シャーリーさん、僕たち同士ですね」

「そうかな」

「はい」

言いながら、震える彼女の手を取る。安心させるように微笑むと、少女は涙を零した。
死体の片づけをしなければならない、思った瞬間、背後に人の気配を感じて鋭く振り向く。
そこに立っていたのは、蒼褪めて表情を無くした兄だった。












「シャーリー…ロロ…どうして」

彼の足下には開かれたままの傘が転がっている。
兄の住まいは近い、銃声に驚いて飛び出してきたといったところだろうが、タイミングが悪かった。

「兄さん、これは…」

ロロの声を聞いて気を取り直したらしい彼は、小さく唇を噛む。それがどのような感情の現れなのかロロには理解できなかったが、次に兄が零した声はいつもよりやや硬かった。

「とにかく、そのままじゃ風邪をひく。
それの片づけは心配しなくて良いから、二人ともついて来てくれ」

言って踵を返す彼に、ロロは堪らず声をかける。

「兄さん、僕は、僕は本当は「ロロ・ランぺルージ」じゃない…!
僕は兄さんの家族じゃないけど、でも」

振り向いたルルーシュは、いつもの笑顔をロロに向けた。
暖かくて優しくて、そしてほんの少しだけ切ない微笑。それを見た瞬間、ロロは自分の判断が間違っていたことを直感的に理解した。

「ロロ」

兄は短く名を呼んだだけで何も言わなかった。しかし、それが全てだった。
ゼロになる程情報に強い兄が、こうした事態を目の当たりにしても驚かない彼が、まだ自身をその名で呼んでいてくれる。
きっと彼は始めから全て知っていて、それでもロロを大切にしてくれた。きっと、兄の気持ちを酌むのであればロロは「仕事」をしてはいけなかったのだろう。しかし、ロロにはそれしか出来ない。

「兄さん、僕は…僕は」

「ああ、大丈夫だから。辛かったな。
…シャーリー、君も…来てくれるか」

じっと二人を見つめていたシャーリーは、自身の名を呼ばれたことに小さく身体を震わせる。
だが、ルルーシュに向けられた視線には既に強い力が込められていた。












ルルーシュ宅でシャワーを借りて、彼の服に身を包まれている。
少し前の自分ならそれだけで舞いあがってしまうだろうが、今日はあまりにも多くのことが起こりすぎた。
きっともう些細なことでは驚かない。

「シャーリー、いいか」

「うん」

身なりを整えるまでの間席を外していたルルーシュが、扉の外から声を掛ける。
大きく息を吸って応えたシャーリーは、伝えなければならないことの数々を脳裡に列挙した。
言いたいことが多すぎて混乱しているが、つきつめてしまえばたった一つのこと。

「シャーリー、」

「ルル、あのね!
あのね、私…わたし、やっぱり駄目だった。嫌いになんてなれなかった」

落ち着いて言葉を綴る筈が、気がついたら彼の声を遮ってしまっていた。
もっと冷静に、ルルーシュの意見を聞いて…そう頭の隅で思いもしたが、シャーリーは敢えてその考えを振り切る。言いたいことは言わなければ。
だって恋は、パワーなのだから!

「ルルがゼロだって分かって、お父さんも死んじゃって…それでも私、ずっとルルが好きだった。
よくわかんなくなったりもしたけど、でもやっぱり気持ちは変わらないよ。
…ルル、私ね、人を殺しちゃったの」

「それは君が悪いんじゃない!俺が、俺の所為で」

言い募るルルーシュの表情があまりにも真剣だから、シャーリーは自らの気持ちに自信を持った。
ルルーシュはゼロになっても彼のままだし、今日のことで自分を嫌ってなどいない。更に、ゼロの告白のことからも分かるが、彼は自分を心配してくれた。

「ううん、私が、自分の意思でやったの。
おかしいよね、人を殺すことって酷いことなのに…凄く、悪いことなのに。
私、ルルを守れるなら怖くなかった。
ルルがゼロになったのも、きっと同じ気持ちだと思うの」

いつも見蕩れるほど綺麗なルルーシュの表情が歪んだ。
きっと彼は、自分が手を汚すことを望んでなどいなかったのだろう。悲しんでいるのかもしれなかった。
しかし、だからといって退いてばかりもいられない。
何を捨てても、何を失っても構わないとすら思える気持ちに気付いたのだから、シャーリーには前進あるのみだった。
シャワーを借りる際に、水浸しの制服から取り出した白い…白かった封筒を握り締める。

「ルル、あなたがゼロになっても、私が誰かを殺しちゃっても!
私が一緒にコンサートに行きたいのは、ルルーシュ、あなただけなの」

言いながら、しわくちゃになって水浸しで、もう原形をとどめていないような封筒を差し出す。
受け取って欲しいと思った。
彼を初めて誘ったあの日よりも強い感情が胸中に渦巻いている。
だから、泣きそうな表情で微笑んだ彼が封筒を受け取って、チケットの時間を確認しながらまだ間に合うかと呟いた時には、大声で泣き出してしまった。



結局滅茶苦茶になってしまったチケットでは入場できず、その日は二人で傘をさしてホールから漏れ聞こえてくる音楽を聞いた。
本当ならお洒落をして、気合いバッチリで告白するつもりだった目論見は外れてしまったけれど、シャーリーにとっては忘れられないコンサートになった。

















       















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